ヨハネ14:1-14「わたしこそ道である」

2023年5月7日(日)復活後第4主日礼拝 メッセージ

聖書 ヨハネの福音書 14章1~14節
説教 「わたしこそ道である」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
 5トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
 6イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。7もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
 8ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
 9イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。10わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。11わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。12よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。 13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

ヨハネ14:1-14

【教会学校再開!】 先週午後、子どもイースターが持たれました。3人の新来者を含む8人の子どもが参加してくれました。初めは固かったお子さんも、途中から心を開いてくれて、メッセージなど一つ一つに応答してくれて、とても楽しい幸いなひと時を持つことができました。

そして今朝、先週初めて来てくださったご家族と、数年ぶりの教会学校を持つことができました。教会学校の再開は、私たちの祈りでしたので、大切な節目の日になりました。これから続けて持たれる教会学校の働きに期待して、祈って参りましょう。

【背景】 今日の聖書箇所は、最後の晩餐での主イエスと弟子の会話です。この直前に、イスカリオテのユダが主イエスを敵に引き渡すために出て行きます。主イエスは受難を予告して「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」と言われます。これを聞いて、4人の弟子(ペテロ、トマス、ピリポ、イスカリオテでないユダ)が次々と質問します[①]。主イエスはペテロがご自分を3回否認すると予告し、しかし恐れずに信じるように教えます。

■【1.キリストを信じて、平安を得る】

【心を騒がせるな】 主イエスは1節で「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と言われました。弟子たちは不安と恐れを感じていました。▼主イエスは受難を予告しておられ、弟子たちは、主イエスが死なれ、後に残されるという、不安と恐れの中にありました。▼しかし主イエスは、ご自分の死は決して終わりではないこと、むしろ、なさねばならない使命があり、それを成し終えたら、もう一度戻って来ると教えました。

2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

主イエスは弟子たちのもとを去って終わりではありません。むしろ、彼らを永遠にご自分のもとにおくために、今は地上を去るのです。「場所の用意ができたならば、またきて…」と、再臨を約束されました。

わたしの父の家には、すまいがたくさんある」と言われます。主は全ての人が救われることを願っておられます。信仰をもって招きに答える全ての人を、父の家=神の御国に受け入れてくださいます。

主イエスが十字架を負って死ななければ、私たちは永遠に主イエスと共に生きることはできません。主イエスは、「場所用意しに行く」と言われました。それは同時に、十字架と復活によって、私たち自身を御国にふさわしくきよめ・造り変えるために、地上を去られたと言えるかもしれません。

2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。…3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」。

聖書には、私たちは「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた」とあります(ヘブル2:15)。死の恐れによって、自分のために生き、自分を守るために人を踏みつけ、自由に神に仕えることができません。しかし、主イエスの復活は、死を越えて永遠の御国に目を向けさせます。▼「死んだらどうなるか」と心配する必要がなくなります。主が永遠の住まいに迎えて下さるからです。「一人で死ぬ」と心配する必要がなくなります。主イエスがご自分のもとに迎えて下さるからです。▼地上の生涯で失敗や過ちはたくさんありますが、主イエスを信じる人は、最終的に主イエスがみもとに受け入れて下さいます。それを思う時、この人生を前向きに生きていくことができます。

【例話:ウェスレー】 18世紀英国のメソジスト運動の指導者ジョン・ウェスレーの逸話です。

ある人がウェスレーに、「あなたがもし明日の夜12時に死ぬと決まったら、どんな用意をなさいますか」と尋ねました。すると彼は、「やはり今決めている通りのことをするだけです。今夜と明朝はグラウセスターで説教し、それより馬に乗ってチウクスバリーに行き、午後に説教し、夜は信者たちと会い、友人のマーティン君の所に泊まり、その家族の人たちとお話してから、神様に祈り、10時に寝て、翌朝、栄えの国に目覚めるだけです」と答えたそうです。[②]

ウェスレーは日々の生活で、永遠の御国の約束の現実に生きていました。

1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。

神を信じ、またわたしを信じなさい」とは、積極的な信仰です。私たちは、心配や恐れの中で、考えが堂々巡りしてしまうことがあります。しかし、心配のとりこになってはなりません。自分の不安な心に語りかけ、主イエスに信頼するように、自分自身を励まし、説得するのです。「神を信じ、主イエスを信じる」ように自分の魂を励まし、主に祈るのです。▽私たちの目が主に向かう時に、この信仰が強められ、平安と喜びが湧いてきます。祈りなしに、不安ではなく信仰に立つための戦いなしに、喜びと平安はやって来ません。内向きの思い煩いから、神に目を上げる時、恵みを頂きます。

■【2.キリストを通して、神を知る】

ヨハネ福音書の最後の晩餐の記事は、父・子・聖霊の三位一体の洞察を与える言葉で満ちています。今日は基礎的な2つのことを挙げておきます。

第一に、主イエスは、神とご自分を同列に並べています。1節「神を信じ、またわたしを信じなさい」とは、「神を信じるように、このわたしに信頼しなさい」と言うかのようです。強調された「わたし」というギリシャ語が繰り返されて、弟子たちの注意を、ご自分に引き付けています。10「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(11節も参照)。▼人が神に等しいとは、ユダヤ教でもギリシャ哲学でも信じがたい主張でしたが、教会は、これらの主イエスの言葉に従って、常にキリストが神に等しい方であることを信じてきました。

第二に、私たちが神を知るのは、主イエスを通してのみだということです。7「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう」。9「わたしを見た者は、父を見たのである」。6「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。▼主イエスの十字架によって、神と人を隔てる罪が処罰されて、神が人と共に住まれるようになりました。主イエスにおいて、神が人になられたので、人の内に聖霊が住むようになりました。主イエスは、神の意志に全くご自分を服従させられたので、主イエスの生涯に、神の意志・力・愛が完全に現れました。▽主イエスによって、私たちの偽りが処罰されて「真理」がもたらされ、死が打ち破られて復活の「命」がもたらされました。こうして主イエスは私たちを神に導く「道」になりました。

【天路歴程】 17世紀英国のピューリタン説教者ジョン・バニヤンが書いた「天路歴程」という有名な本は、クリスチャンの生涯を旅にたとえた面白い本です。「クリスチャン(基督者)」という名前の男性が旅をしますが、ある時彼は「形式主義者(虚礼者)と偽善者」に出会います。当時、すべての人が洗礼を受けていた英国社会で、形ばかりは教会のしきたりに従っていても、主イエスへのまことの信仰を持たない人を描いています。様々なタイプの、敬虔な人や俗っぽい人を、戯画化して風刺して描くことで、真の信仰と形式的な信仰の違いをはっきりと示し、私たちに信仰の励ましを与えてくれます。

(主人公の「クリスチャン」は)二人の男が狭い道の左手の垣越しに転がり込んでくるのを見た。二人は急ぎ足で彼の方へ来た。一人の名は虚礼者で、今一人の名は偽善者であった。先にも言ったように、二人は彼に近づいて来て、次のように話を始めた。

基督者 皆さんはどちらからお出でになりました。どちらへお出かけですか。

虚礼者と偽善者 私たちは虚栄の国に生まれました者で、シオンの山へ賛美に出かけるところです。

基督者 なぜあなたがたはこの道の入口に立っている門から入って来られなかったのですか。「門からではなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である」と書いてあるのをご存じないのですか。

 虚礼者と偽善者は言った、入るのに門の方へ行くのは、私たちの国の者は皆遠回りすぎると考えています。それで私たちのしたように、近道をして垣を乗り越えるのが皆のいつものやり口です。

基督者 しかし、そんなことをして、私たちが行こうとしている都の主が明らかにせられたみ心に背くことは、主に対する罪と考えられないでしょうか。

虚礼者と偽善者 それについては頭をお悩ましになるには及びません。私たちのやることは習慣からするので、もし必要であれば、千年以上もそれで通ってきたと証しする証拠を出すことができるのです。

基督者 ですが、あなた方の習わしは律法で審問されても大丈夫ですか。

虚礼者と偽善者 その慣習はもう千年以上も続いているので、今では公平な裁判官ならだれでもきっとそれを正当と認めるでしょう。その上、この道に入りさえすれば、どの道から入ろうと構わないではありませんか。入ったものは入ったものです。お見うけしたところ、君は門から入って来てこの道にいるに過ぎないが、私たちだって垣越しに転げ込んでこの道にいるのです。ところで、君の身上はどの点で私たちのより優っているのですか。

基督者 私は主の規則によって歩くのですが、君たちは気まぐれの不作法な働きによって歩くのです。もうすでにこの道の主から盗人と考えられています。だからこの道の終りについたとき真人間とは見られないでしょう。君たちは彼の指図をまたず、勝手に入って来たのだから、彼の恵みなしで勝手に出てゆくことになりましょう。

 二人はこれにはろくに返事もしないで、ただよけいなお世話だと言った。それから見ていると、彼らはお互いに余り話もせず、思い思いに道を進んで行った。ただこの二人は基督者に言った、律法と儀式については、私たちは君に劣らず良心的にこれを行うことを疑っていません。だから、君が来ている上衣以外には、どの点で君が私たちと異なるのか分からないのです。その上衣というのは、確かにだれか近所の人が君の裸の恥を隠すためにくれたものでしょう。

基督者 律法と儀式によっては救われませんぞ。戸口から入って来なかったのだから。私が着ているこの上衣はと言うと、それは私が目指す所の主が下さったもので、君たちの言われるとおり、私の裸を隠すためのものです。そして私はそれを彼の親切の印としてうけています。以前はぼろ着物だけしかなかったからです。その上私は歩きながらこう考えて自分を慰めています。都の門に着いたら、きっと主は私を善しと認めて下さるであろうと。私は彼の上衣――私のぼろをはぎ取って下さったその日に、惜しげもなく私に賜わった上衣――を着ているのですからね。それに私は額に印を一つ持っています。恐らく君たちはそれに少しも気づかれなかったでしょうが、それは主の最も親しい方々の一人が、私の重荷が方から落ちたその日に額につけてくれたものです。その上君たちに申したいことは、私が道中歩きながら読んで自分を慰めるために、封印をした一つの巻物をそのとき与えられたことです。またそれに従って確かに入って来た印として天国の門でそれを差し出すよう命ぜられました。恐らくこういった物はどれも君たちは持っておられないでしょう。門から入って来なかったのですからね。  これらのことに対して彼らは少しも答えず、ただ互いに顔を見合わせて笑っただけであった。それから、見ていると、一同は進んで行ったが、ただ基督者だけは一足先へ進んで、時としてはため息をついたり、時としては愉快げに独り言を言うほかはだれとも口をきかなかった。またしばしば巻物を読んだ。それは輝ける者の一人が与えたもので、それによって彼は元気を回復した。[③]

ジョン・バニヤン「天路歴程 正編」p89-92

6節「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。この世に流されることなく、主イエスの御言葉に聞き従って参りましょう。

■【3.キリストに祈って、御業に仕える】

11わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。12よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである

主イエスを信じる者が、主イエスの業を行うのは、主が共におられるからです。主ご自身がなしてくださいます。▼「わたしのしているわざ」とは、福音宣教の働きと言えます。▼「もっと大きいわざをする」とは、主イエスが天に昇られた後は、地上におられた時よりも、大きなわざをなされる、ということです。十字架と復活を経た後は、より優れた宣教の言葉が語られ、ペンテコステを経て遣わされた聖霊ご自身が、信じる者と共に働かれます。▽天に昇られた主イエスが、権威をもって宣教を導かれます。

【主イエスの名によって求める】 13-14節で、主イエスは祈りに答えることを約束されます。▼私たちは祈る時に「イエス様のお名前によって祈ります」と言いますが、これらの箇所の約束に基づいています(15:16、16:23,26)。

13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

「主イエスの名によって願う」とは、どういうことでしょうか。

第一に、主イエスを通してのみ、神に近づくことができる、ということです。主イエスによって罪赦され、神のものとされた者として、神に祈るのです。

第二に、主イエスの御心に従って祈る、ということです。主イエスの「名」はご人格を表すので、「名によって求める」とは、主イエスのご人格と一致して祈ることを指します。▼ヨハネ福音書で、主イエスの御心は「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」です。そのような父なる神の愛が現わされ、神の栄光が褒め称えられることです(3:16)。このような祈りとは、一言でいえば、福音宣教のための祈りです。

【子どもイースター】 先週の子どもイースターと教会学校の再開は、私たちにとって、積み重ねられた祈りの答えでした。

自分たちのためではなく、主イエスの御名があがめられるようにという祈りがかなえられないことは、基本的にありません。▼ただ、すぐに答えられたわけではありませんでした。昨年6月に初めて子どもの日礼拝をし、12月に子どもクリスマスをしました。時間をかけて、祈りか実現していきました。今思えば、これも最善のタイミングだと思います。1年前なら、教会の礼拝や毎週の運営で精一杯でした。今年の始めから教会の実務のいろいろな体制が整ってきて、4月のいろいろな出来事もひと段落したちょうどそのタイミングで、教会学校を始めることができました。▽神様は、いつでも救われる魂を送ろうとして待っておられます。私たちの側の準備が整えば、いつでも、私たちが受け入れることができるだけの魂を送ってくださいます。そのような救霊の働き人を、神様はいつも探しておられます。

▼祈りが答えられたタイミングと共に、その方法も、神様の方法でした。私たちは「○○さんは来られるかな、○○さんはどうかな」と思いを巡らしました。でも、宣教は神様の働きです。私たちの計画にないところから、Lさんご一家を送ってくださり、教会学校を始めることができました。▽Lさんは、豊島に引っ越して来られて、教会を探しておられた時に、子どもイースターがあることを知らずに礼拝に来られて、午後の子どもイースターに来てくださいました。子どもイースターの後、私が「教会学校をやりましょう、ずっと祈っていました」と言うと、Lさんが思わず「主よ、感謝します」と祈られたのが印象的でした。お互いに祈っていて導かれたのが分かりました。 ▼私たちの体調不良で、準備もままならなかった中で、私たちの計画を越えて人を送って下さり、子どもイースターが祝福され、教会学校も始められたことに、自分たちの力ではない神様の御業を見ています。自分の力ではなく、神の力に信頼し、求めて参りましょう。

宣教は、神の業です。私たちの思いを越えて、御業は進み、神の時に、祈りは答えられます。ここに、宣教の喜びがあります。私たちが主イエスの証しのために生きる時、神の業を見ます。神が生きて働いておられるのを見る時、私たちもこの救いにあずかっている確信を強くし、喜びを頂きます。

13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

主イエスの御業に期待して求めて参りましょう。私たちが忠実に御業に仕える時に、主は時にかなって、ご自分の方法で、御業を進めてくださいます。私たちが受け入れる備えができたその分だけ、魂を遣わしてくださいます。

6イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

主イエスこそ、私たちを偽りから「真理」に立ち帰らせ、復活の「いのち」を与え、神に導く唯一の「道」です。主イエスを信じ、従い、証しして参りましょう。


[①] ペテロ(13:36-37)、トマス(14:5)、ピリポ(14:8)、ユダ(14:22)

[②] 高野勝夫編著「キリスト教逸話例話集」p354

[③] ジョン・バニヤン「天路歴程 正編」p89-92