ルカ24:44-53「いと高き所から」

2023年5月14日(日)復活後第5主日礼拝 メッセージ

聖書 ルカの福音書 24章44~53節
説教 「いと高き所から」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

ルカ24:49

主は高き所にいらせられて、
その勢いは多くの水のとどろきにまさり、
海の大波にまさって盛んです。

詩編93:4
Gebhard Fugel: Christi Himmelfahrt, Wikimedia Commons

【母の日を覚えて】

今日は「母の日」です。みんなお母さんから生まれました。すべてのお母さんたちとお母さんの役割を担っている方々に感謝をいたします。今朝の日曜学校で子どもたちに「今日は何の日か分かるかな?」と質問をしたら、首をかしげていました(笑)。

「母」を使った漢字や熟語に「母なる大地」「母国語」「母音」という言葉は有名ですが、「母猿断腸」ぼえんだんちょうという四字熟語を聞いたことがありますか。

「故事・中国晋の時代、武将桓温(かんおん)が船で長江を航海中、一人の兵士が子猿を捕らえた。それに気づいた母猿が鳴き声をあげながら岸辺づたいにいつまでも追いかけてきて、ついに追いつき、船に飛び移ってわが子を抱いたとたん、悲しみのあまりに死んでしまった。母猿の腹を裂いてみるとはらわたがずたずたにちぎれていた。桓温は怒り、その兵を解雇したという」

goo辞書によると→「はらわたがずたずたに断ち切れるほど、悲しみや苦しみ、怒りが激しいこと」という意味だそうです。

この故事は母猿の話しですが、母親がお腹を痛めて生んだ自分の子を愛する心は、人間も同じではないでしょうか。本来、母子の結びつきは切っても切れないものがあります。しかし、昨今は自分の子どもでも愛せなくて苦しんでいる母親がいたり、「しつけ」と称して虐待をしてしまう親もいます。それだけ人間の心は複雑で自分でも理解できない闇を抱えているのではないでしょうか。

 

【復活された主イエス】    

イエス様は人間の心の闇を打ち破るためにも復活してくださいました。復活後、すぐに天に帰らず、40日間地上に留まり弟子たちに姿を現し、「わたしは生きているよ」と示されました。予告なく突然現れて、突然去って行かれるのでイエス様を見て、皆驚きます。幽霊ではなく、確かに手足があり肉体を持ったイエス様でした。そして焼いた魚も召しあがりました(42-43)。食べるという行為は、生きている生命体の特徴です。

ただ十字架にかかる前と違う点もイエス様にはありました。それは「空間を超えて移動した」という点です。部屋に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立って、「やすかれ」(36)と言われた時もそうでした。弟子たちがイエス様を見てもすぐにイエス様だと気付かなかった何かがあり、幽霊だと思わせる何かもありました。ですから復活されたイエス様の体は、以前の体と確かに異なっていました。使徒パウロはこの違いを次のように語っています。

「天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。」(Ⅰコリント15:40)

当時の弟子たちは、復活前のイエス様にも、復活後のイエス様にも実際に会っており、多少なりともその違いが分かったのではと思います。そして40日の間に、弟子たちのイエス様に対する理解が変化していきます。

人が乗り越えられない死を滅ぼし、復活されたイエス様のメッセージは、私たちがこの世界で味わう不当な苦しみや痛み、悲しみがあっても「平安の主が共におられる」ということです。私たちは実際にイエス様を肉眼で見なくても、イエス様の復活を信じる信仰を持ち続けていきたいと思います。

【使命を与えられる主イエス】

今朝開かれた聖書の箇所は、先ず「イエス様が旧約聖書と御自分をどのように関連づけたか」ということで始まっています。イエス様の言葉をもう一度読みます。

「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。(44)

「モーセの律法と預言書と詩篇」はヘブル語の聖書を三つの区分に分けた言い方で、旧約聖書全体を表しています。旧約聖書は「救済史」であり、救い主・メシアの到来の預言です。「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」とありますが、すべて成就しなければならない内容が46節以降に続きますが、イエス様は聖書を悟らせるために、弟子たちの心を開かれます(45)

「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。 あなたがたは、これらの事の証人である。」(46-48)

言い換えると、イエス様は旧約聖書を「キリストの受難と復活」、そして「悔い改めと罪の赦し」としてまとめられたのです。それこそ「福音」です。

使徒パウロは、福音を「最も大事なこと」(コリント15:3)と表現しています。「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」(コリント15:3-5)

ですからイエス様の存在、地上で成したすべてのことは、旧約聖書の成就なのです。この福音が伝えられることは、キリストの復活の現実が拡がりを見せることでもあります。イエス様は弟子たちに「エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。」(47-48)と言いましたが、実際に福音を宣べ伝えていく弟子たちの様子が「使徒行伝」を読むとどんどん実現していっています。

「使徒行伝」は28章で終わっていますが、韓国のオンヌリ教会では「Acts29」というビジョンを掲げて、続きの29章を書き続けようと、宣教の働きを全世界に拡げています。この使命はオンヌリ教会だけのビジョンでなく、全世界のクリスチャンたちに委ねられていることは変わりません。

宣教の働きのために、どうしても必要なことがあります。それは「聖霊を求めること」です。聖霊の満たしと導きがない働きはどこかで行き詰まり、情熱もビジョンも薄れていきます。

「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(49)

「わたしの父が約束されたもの」「上からの力」が聖霊であり、本当の力の源です。

ジョン・M・ドレッシャーというアメリカの老牧師が「若い牧師・教会リーダーのための14章」という本を書いています。副題は「もしも私がもう一度、牧師をやり直すことができたなら…」とあり、どの章を読んでも心に迫るものがあります。ひとくだりをご紹介いたします。

「牧会も、事柄中心あるいは問題中心になりやすい。そして、すべての答えであられるキリストのもとへ行くことなく、問題の中に巻き込まれてしまいやすい。…キリストの受肉と十字架、復活を通して神と和解することをまず第一にすること。人々をキリストの救いの恵みに導き、どんな場所でもまたどんな状況でもキリストのために行き、キリストの証人となるように導くことを意味する。そして、私たちにキリストを現し、私たちの中にキリストを現し、私たちを通してキリストを現されるご聖霊に自らを明け渡すように…」(36‐37頁)

ジョン・M・ドレッシャー「若い牧師・教会リーダーのための14章」

この本を通して、聖霊は私たちの中にキリストを現すように導くお方なのだと改めて確信しました。私たちは祈る時、神様、とも言いますが、イエス様、とも呼びかけるように、聖霊様、とも祈ってよいのです。三位一体の神の交わりの中に私たちは招かれているのですから。私たちは福音のもたらす救いの結果や、働きの実に一喜一憂しがちですが、そこに至るために現すべきキリストの十字架と復活は、聖霊によるのです。ですから、私たちの実際の働きや生活において、聖霊の力が自由に働くために、毎朝一番に「いと高き所からの力」である聖霊に満たされることを祈り求め続けて生きましょう。なぜなら、私たちだけで神様を喜ばせることは何一つできなく、また私たちの内に超自然的な力・つまり聖霊の働きがないなら不可能だからです。

私自身は本来、短気で些細なことですぐにイライラする性格です。でも一日を聖霊に導いていただく祈りをすると、確かに聖霊が私の全人格を覆ってくださり、守ってくださっていることが日常生活の中で感じることが多いです。宣教に召されている私たち一人ひとりですが、神様との正しい関係を築くことなしに、問題や課題の解決はないのだと思わされます。聖霊は神様との正しい関係へと導く慰め主でもあります。

【天に上げられる主イエス】

「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 」(50-51)

イエス様の昇天は、実に神秘な出来事です。弟子たちにとっては別離の日でもありました。今までは地上のイエス様だったが、天上のイエス様へとなったのです。イエス様の昇天には、「終わりと始まり」の意味が含まれています。地上でのイエス様の生活が終わったことと、神の御座(永遠の世界)に引き上げられた後に、聖霊の時代が始まることです。イエス様は、天へ先に行き、場所を用意して待っていてくださるのです(ヨハネ14:2)

今年の9月に「第7回日本伝道会議」が岐阜県で開催されますが、今回のテーマは〈「おわり」から「はじめる」宣教協力〉です。日本の教会が抱えている様々な課題の背後にある終わらせるべきものが何なのか、また始まるべきものが何なのかが問われています。閉じられるドアがあるなら、開かれるドアがあるのです。夫婦で事務局の一員として関わる中で、大会前にすでに祝福を頂いています。この祝福をどのような形でか分かりませんが、教会に還元していきたいと思っています。

イエス様は昇天される直前まで、弟子たちと交わりをしながら、べタニアへと向かいました。そして、最後は「祝福」しながら地上を離れて行きました。祝福を残されていったのです。私たちはこの「祝福を受け継ぐ者」であり、誰かにこの「祝福を持ち運ぶ者」です。神様の祝福はいつも喜びを生み出します。イエス様との最後の別れの時でしたが、弟子たちが抱いていた感情はもはや悲しみではなく、大きな喜びでした。イエス様の言葉を理解したからではないでしょうか。

「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。」(52-53)

弟子たちはエルサレムに帰って待つだけでなく、祈りつつ、望みながら神の時を待ちました。「絶えず宮にいて」とありますが、ルカの福音書は(神の家)から始まり、(神の家)に終わります。ルカの福音書の最初にザカリヤ、シメオン、アンナが登場して、イエス様について預言しました。そしてルカの福音書の最後は、弟子たちがでほめたたえている様子で閉じます。

→十字架の時に神殿の至聖所の幕がすでに真ん中から裂けています。もはや大祭司だけが入ることが許される特別なは終わりを告げました。「いと高き所」である「天の」から直接来られる聖霊が、私たちの内に住んでくださる時、私たち一人ひとりが「神の宮」(Ⅰコリント3:16)と呼ばれるのです。

イエス様の昇天から10日経って、実際に天より聖霊が降り、力が弟子たちに注がれました。すると彼らは、イエス様が救い主であることを大胆に宣べ伝え始めます。エルサレムの一つの屋上の間から、全世界へ福音が拡がっていったのです。その福音は、イスラエルから遠い日本にも伝えられました。私たちも「動く」として、それぞれの場所で委ねられている働きを喜んで全うさせていただきましょう。

最後に詩篇93篇を読んで終わります。

「主は王となり、
威光の衣をまとわれます。
主は衣をまとい、力をもって帯とされます。
まことに、世界は堅く立って、
動かされることはありません。
あなたの位はいにしえより堅く立ち、
あなたはとこしえよりいらせられます。
主よ、大水は声をあげました。
大水はその声をあげました。
大水はそのとどろく声をあげます。
主は高き所にいらせられて、
その勢いは多くの水のとどろきにまさり、
海の大波にまさって盛んです。
あなたのあかしはいとも確かです。
主よ、聖なることはとこしえまでも
あなたの家にふさわしいのです
。」(詩篇93篇1-5節)