ルカ1:46-55「マリアの讃歌」
2022年12月11日(日) 待降節 第三主日 礼拝メッセージ
聖書 ルカ1章46~55節
説教 「マリアの讃歌」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ1:46-55)
アドベント第三週目を迎えました。皆さんはどのような一週間を過ごされましたか?
11月末の話ですが、近所の子どもたちの家庭にアドベントカレンダーを配った時に、私は次のように説明をしました。「♪もういくつ寝るとお正月♪~と歌うように、クリスマスが来るのを楽しみにしながら、一日に一個のお菓子の窓を開けるんですよ」と。一日一個が待てずに、次の日の分の窓まで開けてしまう子どももいるかもしれませんね。(それは私です…)
【待ち望むこと】
アドベント(待降節)の特徴は「待つこと」ですが、ただ時間が経過するのを待つのでなく、待つという行為の中に「希望(キリスト)」を入れて待つなら、「ワクワクと待ち望む」ことになります。沖縄風に言えば「ちむどんどん」です。ワクワクしながらクリスマスを待ち望んで参りましょう。一ヶ所、聖書をお読みします。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。」(イザヤ9:6)
預言者イザヤは、救い主誕生の預言をしましたが、この預言が実現したのは、700年程後のことでした。救い主誕生の日まで、どれだけ多くの人たちが祈り、待ち望んでいたことでしょうか。神様は相当の年月をかけられました。
「待ち望む」ことで感謝なことを一つシェアいたします。
【その日が来る】
先週、Y教会へ「子どもクリスマス会」でお借りした物の返却とご挨拶に行って参りました。礼拝堂を見て、「あぁ、ここで良くお祈りしたな」と懐かしくなりました。嬉しいことにその礼拝堂で、ある青年が祈り続けてきた一つの祈りが実現していました。その祈りとは「教会があらゆる賛美で満ち溢れるように。礼拝でドラムありのバンドで新しい賛美ができるように」でした。今では、毎週の礼拝で、電子ドラムを含むバンドで賛美が捧げられています。時代が移り変わり、人が入れ替わっても「必ず主はこの祈りをかなえてくださる」と信じて祈り待ち望んでいた人たちにとってどれほどの喜びでしょうか。神の計画なら必ず実現するのです。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)
伝統的な教会の礼拝にバンドで現代ワーシップ賛美が加わったことは「大きな変化」で、昔ながらの讃美歌・聖歌に慣れている人たちにとっては葛藤があったと思います。しかし、主はあらゆる賛美の心を受け取ってくださる方です。私もあらゆる良い変化を受け入れる寛容さを持ちたいと思わされました。神様は世界のどこかで誰かが祈った祈りを時が満ちたなら、神の御計画として実現される方であることに主の御名を崇めます!
【人生の大きな変化を受け入れたマリア】
今日開かれた聖書の箇所は、「マリアの賛歌」ですが、「賛美する・崇める」という言葉がラテン語に翻訳されMagnificat(マニフィカート)と呼ばれています。年若いマリアは自分の身に起こった「人生の大きな変化」を受け入れ、主を賛美しました。「人生の大きな変化」とは、「聖霊によって救い主を身ごもった」ことです。
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」(1:35)
ルカ福音書の著者のルカは医者でしたが、赤ちゃんが処女の体を通して産まれるという信じがたい事実を認め、書き記しています。御使いはマリアに不妊の人と言われ老齢になったエリサベツも男の子を宿し、六か月になっていると告げ、「神には、なんでもできないことはありません。」(1:37)と言いました。するとマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」(38)と御使いが伝えた神の御言葉に自分自身を明け渡しました。前代未聞のことでしたので、マリアは必ずしも全てを理解してはいなかったでしょう。彼女はただ神の御心を認め、神の言葉に従いました。そして急いでエリサベツに会いに出かけました。
二人は会う前から相手の事情を知っており、お互いに置かれた状況の意味を理解していました。救い主を宿したマリアの挨拶を聞いたエリサベツは聖霊に満たされました(1:41)。二人は単に再会を喜んだだけでなく、自分たちの上になされた奇跡を互いに確認し、お腹の子どもたちも一緒に四人で主の御業を喜んだのです。エリサベツはマリアを祝福しました。これに対してマリアは驚くほどの祝福を与えてくださった神様に賛美をささげます。マリアとエリサベツのように、祝福を分かち合える相手がいることは幸いです。与えられている家族や信仰の友を大切にしたいと思います。
【一般常識を超えた世界】
普通、「処女」が身ごもったと信じることは、一般常識では受け入れがたいことです。しかし、「神がそうされた」のです。人間を創られた神が、マリアを選ばれ聖霊により胎の実を与えられました。その時点ですでに人間の常識や限界は突破されています。人間の領域を超えた超自然的な「神の命の領域」に属しています。
救いの業は、始まりから神の恵みであり、聖霊の働きそのものです。私たちは「神様の考えは自分の考えや自分の常識や経験とは違う」ということを認めなければならない時があります。それは私たちにとって「大きな変化」を受け入れることです。しかし神にとって不可能なことは何もありません。マリアは常識を超えて未知なることへ飛び込みました。あなたはこれまで「人生の大きな変化」をどのように受けとめてきましたか?その際にどのような神様の介入がありましたか?
それでは「マリアの賛歌」を通して、彼女の信仰から更に学びたいと思います。「マリアの賛歌」は、旧約のハンナの祈りや歌(Ⅰサムエル)、詩篇とも似ています。ユダヤ人は小さい頃から旧約聖書を暗唱していて、マリアもハンナの賛美を知っていたでしょう。彼女も旧約の聖句を自由に合わせて賛美を捧げたのではないかと言われています。前半と後半に分けて見て参ります。
【祝福されたマリアの思い】前半46-50節
「するとマリヤは言った、『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう』」(46-48)
マリアは自分のことを「卑しい女」と表現していますが、「卑しい」というギリシャ語は、自尊心が低く意気消沈している状態を意味する言葉です。「女」とはしもべの女性形で女奴隷を意味します。マリアは「卑しい女」である自分に目を留めてくださった神様によって、「救い主の母」となった自分は「さいわいな女」と言い換えました。「今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」と。神様によってマリアのアイデンティティーが変化したのです。マリアは全身全霊で神様をほめたたえています。なぜなら、神様が卑しい女である自分を用いて「大きなこと」をしてくださったからです。
「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(49-50)
「大きな事」とは何でしょうか。それは、「力あるかた・神」が小さなマリアの胎を通して、待望されていたメシア・救い主を誕生させることです。マリアも救い主を待ち望んでいたと思いますが、まさか自分が救い主の母親になるとは思いもしなかったでしょう。そしてまだお腹に命が宿ったばかりで、母となる自覚も薄かったと思います。しかし「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった」と神の言葉を信じる信仰をはっきりと表明しました。マリアは、そうしてくださった神をただ全力で賛美しました。
私たちも神の言葉を約束として受け取り、実現すると信じて待ち望みたいと思います。そして自分のアイデンティティーを神の内に見出された者として主を賛美いたしましょう。
【マリアとイスラエル】後半51-55節
「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(51-55)
51-55節ではマリアは、イスラエル民族全体に思いを馳せつつ、神様のこれから起こるご計画を賛美しています。使われている動詞は全て完了形で、まだ起こっていない未来の救いがすでに成し遂げられたことのように信仰を持って宣言されています。ここに救い主である神のご性質に焦点を合わせるマリアの「信仰の目」があります。賛美の中で、「主を恐れる者とおごり高ぶる者」、「低い者と権力ある者」、「飢えている者と富んでいる者」と対比が見られます。
神様はエジプトで奴隷であったイスラエルの民を、モーセを通して救い出されたように、救い主・キリストを通して罪と死から救い出されます。マリアは救い主によって、全ての過ちが覆され、この世が正しくされて行く「逆転の恵み」があると歌っています。この「逆転の恵み」は、先ずマリアの身に起こりました。
「ナザレから、なんのよいものが出ようか。」(ヨハネ1:46)と言われていたにも関わらず、マリアが選ばれ、ナザレ人イエスが誕生します。それはイエス様が特別な人々だけの救い主でなく、全人類の救い主として来られたことの証しです。これこそ神の特別な恵みではないでしょうか。
【まとめ】
「マリアの賛歌」は個人的な喜びや祝福だけでなく、私たちを救ってくださる神様のご性質に焦点を合わせて賛美し、救いは成し遂げられたと信仰を持って賛美されています。ともすれば私たちの祈りや賛美は個人的なことで終わることも少なくないのではないでしょうか。
イエス様を信じると経済的にも豊かになり、病にもならず健康で長生きするとは聖書に書いていません。経済的な豊かさも健康も祝福ですが、大切なことは豊かな時も、貧しい時も、どのような時にも神を畏れて、希望を失わず賛美する人生が信仰を持って生きる生き方です。自分が小さくみすぼらしい存在に思えても、共におられる主のゆえに賛美をしたいと思います。
今日は「マリアの賛歌」からマリアの①約束の言葉に対する信仰、②神のご性質に焦点を合わせる信仰の目、③未来に起こる救いの成就を先取る信仰を見て参りました。信仰と賛美と喜びはセットです。信仰を働かせる時、賛美と喜びが生まれます。神を賛美する心には信仰と喜びが根底にあります。喜びの源は神への信仰と賛美です。
私自身、最近賛美することが少なくなったと悔い改めました。昔は嬉しい時も辛い時も、どんな時も大声で賛美をしていましたが、コロナ禍になって賛美以外のことに時間を取ることが多くなってきてしまいました。賛美は私たちを主のもとへ引き上げ、確信と平安を与えます。また信仰の世界を霊的に見る目も澄んできます。またどんな賛美が自分の口から出てくるかで、その時の自分の状態も分かります。マリアが信仰を持って主を賛美したように、私たちの賛美の心も回復させていただきたいと思います。