ルカ18:1-8「失望しないで祈る」
2022年10月9日(日) 礼拝メッセージ
聖書 ルカによる福音書18章1~8節
説教 「失望しないで祈る」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。…
『まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。』」
(ルカ18章1~8節、口語訳)
昨日は結婚式があり多くの祝福を頂きました。今日はいよいよ待ちに待ったファミリーコンサートの日です。喜びが続きます。少し結婚式の報告をします。今回の結婚式は教会でなく、結婚式場のチャペルで行われました。式場が雇っている司式者でなく、舜牧師が司式をいたしました。式場が定めている式文はコロナ禍ということもあり、短く30分の式でした。私ならその式文に沿ってそのまま司式をしたと思いますが、舜牧師は本来教会でするような形に近づけてあげたいと願い、御言葉・お祈り・メッセージを追加し、式場の担当者にメールで原稿を提出しOKをもらったのです。いろいろ追加したのに式が30分で終わったことにびっくりです。その後の披露宴では新郎新婦の人となりが分かるエピソードやムービーなどが紹介され、私も家族のように涙を流して聞きました。本当に清々しい結婚式でした。結婚式の恵みに牧師として与る幸いに感謝です。両家の祝福をお祈りいたします。
【主イエスのたとえ話】
さて今日の聖書箇所は、先週に続いてルカの福音書からです。数年前に「牧師のための説教セミナー」に参加した時の講師が次のように言っていました。「説教の中でのたとえ話は、真理を示すための窓のようなものです。窓から光が差し込んできて見えなかったことが見えるように、理解できなかったことができるようになる助けです」と。
イエス様はたくさんのたとえ話を用いて真理を指し示して来ました。そして、イエス様が地上を離れた後に残される弟子たちのため、厳しい世の中で信仰を持ち続けるために大切なことを今回のたとえ話では教えています。それは「失望しないでいつでも祈ること」でした。
「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(1)
先ず今回のたとえ話から見て行きたいと思います。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」(2-5)
お話の中に、対照的な二人の人物が登場します。裁判官とやもめです。不正な裁判官は、神を恐れず人を人とも思わない高慢な権力者で、もう一人のやもめは社会的にも弱く無力な存在でした。この裁判官はやもめの訴えを聞いても最初は全く無関心で聞く耳を持ちません。重い腰をやっとあげたと思ったら、「このやもめは、うるさくて仕方がないから裁判をしてあげる。そうでないと自分が疲れ果てるから。」というのです。何と自己中心的な裁判官でしょうか。自分のことに関しては敏感ですが、他人に対しては人間的な憐れみの心や正義感の欠片も見えません。たとえ話の中の人物とはいえ、このような人に裁判は頼みたくないものです。
しかしこのたとえ話は、このような不正な裁判官でさえ動かすほどの一人のやもめの熱心さ・しつこさに焦点が当てられています。「うるさくて仕方がない」という言葉は、「目が刺す」という意味のギリシャ語の言葉が使われており、やもめのしつこい訴えが裁判官の体も心も煩わせたということです。このやもめは失望に近い状態に陥ったかもしれませんが、それでも諦めずに訴え続けたのです。あなたはこのやもめのしつこさをどう思いますか。
【神の御心はどこに】
失望したと思うことは、誰でも少なからず経験があると思います。期待していたにも関わらず、そうならない時、私たちは希望を失いやすいです。希望を失うと行動も止まってしまいがちではないでしょうか。なぜなら人は機械ではなく、感情を伴う生き物ですので失望した直後に、気持ちの切り替えがすぐできるとは限らないからです。
私は神学校卒業後、以前から想いを寄せ祈り続けていた人に、自らアプローチをしたことがありました。この人が神の御心の人で、もしかして結婚するかもと思っていましたが、結局叶いませんでした。すると突然、神様の御心が分からなくなり、私はすぐに立ち上がれませんでした。でも神の憐れみで、祈りの手を止めることにはならず、結婚に対する祈りは具体的な祈りから、漠然とした単純な祈りにシフトされて行きました。失恋しても祈り続けることを神様が導いてくださったのです。
【主イエスのたとえの意図】
短期間で聞かれるお祈りは、短距離走のような祈りだと言えます。しかし長期間祈り続ける長距離走のような祈りであっても失望せず、神が与える勝利を目指して祈り続けたいものです。私たちはしつこいほどに熱心に追い求める心、傾ける情熱がどれだけあるでしょうか。他人からみるならその熱心さ自体、「うざい、面倒くさい」と煙たがれることもあるでしょう。
イエス様の意図するところはこうです。「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。」(6)と、たとえの意図を示しています。それは、不正な裁判官の言っていることを聞き、私たちが祈りに対するふさわしい姿勢を悟るようにということです。
そしてイエス様は結論として、「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」(7)と、問い返されます。この否定疑問文の答えは、「いいえ、放っておかれることはありません」という強い肯定です。不正な裁判官でさえ熱心な訴えに根負けして裁判をするなら、神に叫び求めている者たちのために神が動かないはずはないと言っているのです。やもめはいくら訴えても聞いてくれない裁判官に対しても諦めませんでした。やもめの取り巻く状況はひっ迫していたからこそ真剣な訴えになったことでしょう。
あなたの長く続けている祈りがありますか。家族の救い、病の癒し、就職、結婚のこと、人生の様々な転機で祈りを通して、神様の最善の道が開かれて行くことを体験したいと思います。そして自分の力ではどうにもならない時こそ、失望せずに祈り続けたいと思います。思いがけない時にボーナスのように祈りの答えが与えられることもあります。祈りを聞かれる方こそ、人の人生の最後の審判を下す権威を持っている方です。
【ヤコブの格闘】
聖書の中に失望の中で叫び祈った人たちがたくさん出てきます。失望しても祈り続ける秘訣があります。それは神の約束の言葉・御言葉を祈りの中に入れるということです。「御言葉を握って祈る」という言い方もします。
創世記に登場するヤコブは、信仰の父と呼ばれたアブラハムを祖父とし、父イサクに与えられた祝福の約束を受け継ぐことになっていました。しかし、ヤコブは幾度となく家族を騙し騙され、波乱万丈の人生を送っていました。そんなヤコブでしたが、ある日ある人と夜明けまで格闘をします。ある人とは神の使いでした。そして「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。」(創世記32:26)とヤコブは言いました。ヤコブは以前に兄エサウを騙して命を狙われて逃亡しましたが、故郷に戻ることになり、エサウとの再会を目前にしていました。ヤコブは恐れから失望に似た思いにかられ、眠れずにいました。そんなヤコブに神の使いが現れ、格闘を夜明けまでしたのです。戦うヤコブの姿は、問題を前にして全力を尽くして必死の祈る姿そのものです。この体験はどん底にいたヤコブにとっての「神と個人的に出会った十字架の体験」でした。ヤコブは自分の十字架を避けませんでした。真向から向き合ったのです。私たちも自分自身の弱さ、足りなさ、未熟さを覚え、前進できない時、神と格闘する如くに祝福を求め祈ることに主が導かれることがあります。ヤコブはその後、ブレないものを得て新しくされました。
ヤコブという名前は、「かかとをつかむ者、妨害する者、騙す者」という否定的な意味があります。しかし、神様は祝福を願ったヤコブに祝福を与え、「イスラエル」という新しい名前を授けられました。「イスラエル」という名前は今は国の名前になっていますが、元々はヤコブに与えられた新しい名前でした。「神と戦う、神が治める」という意味があります。祖父アブラハム、父イサクに与えらえた約束は自動的にヤコブに与えられたのでなく、ヤコブ自身が個人的に神の前に出て祈った時に注がれた祝福でした。そして祝福を継承して行く者たちは神の約束を握って、「アブラハム、イサク、ヤコブの神よ。与えられた約束を感謝します。先祖を祝したあなたが私をも同じように祝福してください」と祈って来ました。
私たちも神の前に出なければならないほど霊的に飢え渇きを覚えて導かれる祈りがあります。ヤコブは祝福や恵みを奪い求める者から、与える者へと変えられて行きました。主は私たちが祈りの窓を開き、主の約束の言葉を「祈りの武器」として失望せずに祈ることを望んでおられます。その主の心に応答していきたいと思います。
【主が再び来られる日まで】
イエス様は今日の箇所の最後でこうおっしゃっています。
「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(8)
失望せずに祈り求める者には、速やかにさばきを行ってくださる、と。つまり祈りを速やかに聞いてくださる神ですが、イエス様がもう一度来られる再臨の時まで、神に対する信仰がなくなっていないだろうか、と問いかけているのです。切に求める信仰の祈りが消えてしまわないように、だからこそ祈り続けて行きたいと思います。
私の出身地の沖縄のことですが、方言話者がどんどん減ってきています。使われなければ絶滅の危機に陥ります。私自身は、ある程度の意味は分かりますが、単語は言えても会話はできません。クリスチャンの信仰も同じではないでしょうか。祈り、信仰を働かせなければ衰退していくだけです。今、現在、失望せずにクリスチャンが神を信頼し持続的に祈ることで、未来の神の国のための土台を作ることなります。主がもう一度来られる時に、信仰が見られないと言われないようにしたいと思います。不正な裁判官ならぬ、神の心を動かす信仰者の失望しない祈りを共に響かせて行きましょう。
毎週の祈祷会で毎週のように同じことを繰り返し祈っていますが、未だに実現していない祈りもたくさんあります。しかし、誰も文句をいいません。私たちは祈り続けています。共に集まり祈る時、心を開いてその場にたたずむお互いの存在に自然と私は心が励まされます。どうぞ水曜日の午後7時15分の祈りの時間を覚えてどこにいても心を合わせてください。週報に祈祷会で開かれる聖書の箇所も記しています。教会にいらっしゃれなくても、共に御言葉と祈りを持ってそれぞれの場所へ遣わされて参りましょう。そして終わりの日に至るまで、希望と忍耐を持って前進したいと思います。皆様の新しい一週間の上に豊かな祈りの霊が注がれますように。