ローマ5:1-11「苦難さえも」  

2023年3月12日(日)受難節第3主日礼拝 メッセージ

聖書 出エジプト17:1-7, ローマ5:1-11
説教 「苦難さえも」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、『あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか』。『…見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる。』モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。」

出エジプト17:3、6

「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

ローマ5:3-5
ピーテル・デ・グレッベル 「岩を打つモーセ」Wikimedia Commons

 「東日本大震災」のあの日から12年。被災して失ったものが大きければ大きいほど、悲しみは完全に癒えることはないかもしれません。私自身、震災を経て「命」に対する向き合い方が変わりました。「肉体の命」のはかなさと限界を強く感じ、「永遠の命」「天国」に対する渇望が大きくなったと思います。来週は「防災に関する取り組み」を教会でもいたします。必要なことを私たちも備えて行きたいと思います。

 前回のメッセージでは、「イエス様が洗礼直後に荒野で受けた試み」について見て行きました。今日のメッセージ箇所も、受難節を歩む私たちにとって、キリストの受難を黙想する助けになる箇所ではないかと思います。

 WBCが開催されていますが、「侍ジャパン」に選ばれた選手は皆日々の鍛錬を経て、本番に臨んでいるでしょう。私たちクリスチャンも日々の練習(鍛錬)が必要です。練習(鍛錬)は何のためにするのでしょうか。熟練した選手になるためではないでしょうか。練習を避けては熟練した野球選手にはなれません。今日は「神様の大きな御計画の中でなされる苦難の意味」を学びたいと思います。

【近道でなく遠回りの道へ】

イスラエルの民がエジプトに滞在していた期間は、430年でした(出エジプト12:40)。430年が終わったちょうどその日に、イスラエルの民はエジプトを出発しました。神様がかつてアブラハムに告げられたことが成就したのです。

「…あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。…四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。」(創世記15:13,16)

奴隷として苦役を課された日々が終わりを告げましたが、イスラエルの民にとってこの先、苦労もなく悠々自適な日々が待っていたのではありませんでした。次のステージは荒野での苦難でした。この荒野での苦難こそ、神様の訓練・鍛錬だったのです。

「…ペリシテびとの国の道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民が戦いを見れば悔いてエジプトに帰るであろうと、神は思われたからである。神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。」(出エジプト13:17-18)

神様は出エジプトしたイスラエルの民に近道でなく、遠回りの道(荒野)を行かせました。その時、壮年男子だけで約60万人いたそうです。

【飲み水問題再勃発!】

「イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。」(1)

 水がなかったのはこれが初めてではありません。追って来るエジプト軍を神様が、紅海を分けて渡ることで救い出された直後にも水不足がありました(15:22-25)。そこでも「民はモーセにつぶやいて言った、『わたしたちは何を飲むのですか。』」とあります。水は生きるためには必須で死活問題です。今回も「それで、民はモーセと争って言った、『わたしたちに飲む水をください』。モーセは彼らに言った、『あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか』。」(2)イスラエルの民も水を得るために必死です。前回もモーセに不平を言いましたが、今回も同じようにモーセを責め不平を言っています。モーセが水を与えるのでしょうか。モーセは民に対して「なぜ主を試みるのか」と言っていますが、これは言い換えると「なぜあなたたちは主を信頼して待ち望まないのか。主はあなたたちを奴隷状態から救い、エジプト軍からも救い、荒野へと導いた方だ。荒野で養ってくださるのも主ではないか。」にも受け取れます。

 しかし、民は水に飢えていたのでモーセの言うことに耳を貸しません。

「民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、『あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか』。」(3)

 イスラエルの民は飲み水がないことで、エジプトを恋しがり、先に用意されている祝福の約束を忘れ、渇きからくる死を恐れました。モーセ自身も水を求めていたでしょう。もしイスラエルの民がモーセの側に立って、「水がないですね。一緒に神様に水を求めて祈りましょう」と言ったとしたら水を得るため争う必要はなかったのではないでしょうか。

「このときモーセは主に叫んで言った、『わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。』」(4)主に叫ぶとすぐに答えが来ました。

「主はモーセに言われた、『あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる』モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。」(5-6)

 「イスラエルの民の不平不満」と「モーセが神の叫んだ祈り」がとても対照的ではないでしょうか。紅海を二つに分け、その水で敵を覆い、また天から食べ物を降らせた神様です。神様はレフィディムに水がないとご存じでしたが、そこへ導かれました。

【神が導く場所で…】

私たちは苦難・困難に直面すると、すぐにつぶやく傾向がないでしょうか。信仰の試練が与えられる時に先ず覚えたいことは、神様が私たちをそこへ導かれたということです。

 つぶやきは不信仰を招き、不信仰は争いを招きます。不信仰のイスラエルの民はモーセを苦しめました。モーセに水がない責任を押し付け、咎め、罪に定めました。なぜなら、モーセが彼らをエジプトから荒野に導きだした張本人なので、水を用意する義務がモーセにあると考えたからでした。「水を出す奇跡を見せろ」と催促の気持ちもあったかもしれません。神様にしか出来ない奇跡を、目に見える指導者に求めたのです。モーセは民の非難は主に対する非難だと指摘しました。「なぜ主を試みるのか」と言う言葉にモーセの思いが見えます。イスラエルの民はモーセと争うことで、神様の忍耐を試しました。それは神様の計画が分からないために、約束された真実に疑いを抱いていることになります。神様は私たちにハードルを与える方です。主を信頼し、忍耐させ、成長させるために試み・苦難を与えられます。

私が神学院3年生の時に、〇〇チャペルの牧師が転任し、無牧(牧師がいない状態)となりました。すると当時4年生だったYさんが毎週の礼拝、祈祷会、家庭集会を任されメッセージをするようになりました。(※当時、四年生一人、三年生一人、全校生徒は5人でした)一年後輩の私は「Yさんは牧師の息子だからできるんだな。すごいな。頑張れー。」と思っていました。すると次の年も牧師は就任せず、四年生になった私が派遣されることになりました。引継ぎは一日か二日だけでした。最後に役員の方々と初顔合わせをした時、お一人がこうおっしゃいました。「私たちのためにご飯を作ってください」と。私はご飯を御言葉の糧だと思い、「はい、分かりました」と答えるとお昼ご飯だと分かりました。「お金もないので1000円~1300円で10人分を」とお願いされました。Yさんの後ろ姿をずっと見て来た私は、そこにご飯作りが加わるのかと思い、驚きを隠せませんでした。しかし、祈って始めてみたら安い八百屋さんとの出会いがあり、知恵が与えられ、差し入れがあったりなどして一年間楽しく食事作りも守られました。一年後には教会の方々も順番に持ち寄ってくださるようになり、食事の交わりが定着しました。

〇〇チャペルの専任牧師のために祈っていましたが、神学院卒業後の私の派遣先が〇〇となりました。〇〇で初めてのご葬儀、結婚式の司式も聖餐式もしました。今振り返ると、神様が導いた場所で祈りつつ進むと、すべての必要を神様が満たしてくださったのだと言えます。つぶやきそうになる時、神様が私の口をつぐんで下さり、賛美と祈りに変えてくださったことに感謝しています。〇〇チャペルの方々とも主に在る関係が築けたことも感謝でした。

【神が避けどころとなる】

モーセが苦難に直面した時、神様が避けどころになりました。「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。」(4)というモーセの神様への訴えはそのまま切実な祈りとなりました。モーセは自分自身に民に水を与える力がないことを知っていました。だからこそ自分の足りなさを隠さず、神様だけが私も民も救ってくださるという信仰を示しました。人は自分に対して非難の言葉があったとき、怒って瞬間的に反応してしまうことがあります。瞬間的に反応した後は大きな後悔もついてきます。一番良い方法は何よりも先ず主の御前に出ることです。

 〇〇チャペルに通うようになって一ヶ月が経った頃、役員さんのお一人がこうおっしゃいました。「私は来年のことを思うともうやってられない、教会をたたんでそれぞれが違う教会に行くことも私は考えているのよ。私がどんなに一生懸命がんばっても何も変わらない。みんな自分勝手でもう疲れてきた。Y先生も一年、あなたも一年たったら出て行くでしょ、献金も少ないし、いったい神様の御心はどこにあるのかしら。」と心にあることをぶちまけられました。言いたいことだけを言い、帰ろうとされたので「一緒に祈りませんか」と誘ったら応じてくださったので、二人で講壇に向かって座り、祈り始めると二人とも涙が止まらなくなり、聖霊が導いていることを感じました。祈りが終わると、「あんなことを言って悪かったわね、この教会をはじめたI先生に会わす顔がない。これからもよろしくね」と、その役員さんがおっしゃいました。この役員さんは去年お召されになりましたが、この出来事を折に触れて私は思い出します。

私たちは現実に対して、心に湧いてきた反応を口に出してしまうことがあります。しかし、共に祈るときに神様の心を神様が分かち合ってくださいます。神の子どもたちが苦しむ時、神様が沈黙しているように思える時も、共に神様も苦しんでおられ、その先にある祝福を見るようにと導いてくださるのではないでしょうか。

 岩から水が出て来たことに対して合理的・科学的な説明を求める人がいるかもしれませんが、これは明らかに神の奇跡です。

【モーセの前に立つ神】

「主はモーセに言われた。『民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。』モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。」(5-6)

「神様がモーセの前に立つ」のです。ヘブル語を直訳すると「神はモーセが打つ岩にご自身を立てられ、ご自身が打たれるように差し出された」となるそうです。この御言葉は十字架で打たれたイエス・キリストを彷彿させるのではないでしょうか。

パウロはⅠコリント10:1-4で次のように言っています。

「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

 モーセが岩を打って水が出た場所は二つの名前で呼ばれるようになりました。一つ目は「マサ」で、「試み」の意味があると訳注を見ると書いてあります。二つ目は「メリバ」で「争い」という意味です。最初のマサは神様に対する民が取った行動がそのまま名前になり、二つ目のメリバは民が神様にとった態度が名前になっています。イスラエルの民は神様が、彼らの只中にいて約束されたことを行うことを信じることができませんでした。

「そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが『主はわたしたちのうちにおられるかどうか』と言って主を試みたからである。」(7)

【苦難に対する私たちの二つの態度】

 最近読んだ黙想エッセイに以下のような文章がありましたので、紹介したいと思います。

「神様は作品を造るときに、苦難という材料を使われます。苦難にあうと、私たちは『神様、なぜ私をこのように苦しめるのですか』と恨みますが、神様が最高の作家であることを覚えなければなりません。神様が必要だと思われたからこそ苦難がやってきたのに、私たちが反論することができるでしょうか。私たちにできることは、忍耐することだけです。今は良くても死ぬほど苦労する人生ではなく、今はつらくても終わりの良い人生となるように生きましょう。…」

リビングライフ3月号(黙想エッセイ・耐え抜く力、打ち勝つ恵みより)

 現実の苦難に対する態度で結果が変わります。不平不満は不信仰を生み出し、不信仰は争い生み出します。しかし、もう一つの態度があることを覚えたいと思います。

皆様の新しい一週間が豊かな主の希望と聖霊による神様の愛に満ちあふれていますように。

「…患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:3-5)

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(コリント10:13)