創世記26:17-33「平和を望むイサク」
聖書 創世記26:17-33
説教 「平和を望むイサク」
メッセージ 齊藤良幸 役員

24その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。25それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。
26時にアビメレクがその友アホザテと、軍勢の長ピコルと共にゲラルからイサクのもとにきたので、27イサクは彼らに言った、「あなたがたはわたしを憎んで、あなたがたの中からわたしを追い出されたのに、どうしてわたしの所にこられたのですか」。28彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。29われわれはあなたに害を加えたことはなく、ただ良い事だけをして、安らかに去らせたのですから、あなたはわれわれに悪い事をしてはなりません。まことにあなたは主に祝福されたかたです」。
創世記26:24-29
今年は急に暑い日が続いたと思ったら、そのあとは台風や大雨による水害や土砂崩れなどの大きな災害に見舞われました。
必要不可欠な水
今日の聖書箇所、イサクの時代、イスラエルでは、乾燥した荒れ地が多く地下水を利用するため井戸を掘り、水を確保することは大変重要でした。私たち人間に取って、水は欠かすことのできない大切なものです。雨が降り長い時間をかけて地下にしみ込んだ井戸水や湧水は、1年中温度が一定していると言われます。
暑い夏には井戸水で冷やしたスイカや冷たい飲み物がごちそうでした。私が小学生の低学年のころ、夏のある日に母に連れられて山菜を取りに行きました。山のあちらこちらを歩きまわりたくさんの山菜を取りました。小さな水筒はすぐに水がなくなってしまいましたが、途中に湧水がいくつかあって、そこで冷たい水を補充して、暑さをしのいだことを思い出しました。
母は湧水の場所を知っていたのですが、今日の主人公イサクの時代は、自分たちで井戸掘りをして、水を見つけなければなりませんでした。あとから出てきますが、イサクは水の井戸を見つける名人でした。父アブラハムが掘った井戸の位置や名前もきちんと憶えていました。
今日は、創世記からイサクの人生を通して、平和を待ち望む生き方をみていきたいと思います。

イサク、水を求めて井戸を掘る
アブラハムの子であるイサクは、父の死後、財産を引き継ぎ、カナンの地で暮らしていました。理由は分かりませんが、カナンの地であるヘブロンあたりから南に下った、べエル・ラハイ・ロイを訪れ、その近くに移り住みました。ベエル・ラハイ・ロイは、聖書において重要な場所として知られています。ここの井戸は、アブラハムとサラのところからエジプトに逃れた女奴隷ハガルが神様の使いと出会った場所であり、アラビヤ人の間では「ハガルの井戸」と呼ばれた場所です。
また、イサクが将来の花嫁リベカを乗せた隊商を見つけた場所で、大変なじみのある場所でした。しかし、ひどい飢饉がその地に起きたので、べエル・ラハイ・ロイから北に移動したゲラルというペリシテ人の王アビメレクが支配する地に移り住みました。イサクたちは、まだペリシテ人たちに脅威を与えるほどの存在ではなかったので、食物だけでなく、ペリシテ人たちの井戸の水にも助けられたのです。
ペリシテ人のねたみ
イサクには、家族の他にも父アブラハムから引継いだ使用人たちがたくさんいましたし、かなりの家畜も所有していたのですから、毎日かなりの水を必要としました。26章12節~16節によると、イサクたちはその地で農耕を始め、種をまき、その年100倍の収穫を得たと書かれており、農業用水もたくさん必要としたはずです。

それだけだはなく、家畜や僕たちもたくさん増えたので、よそ者であったイサクはペリシテ人たちにひどくねたまれました。イサク一家は、いまやペリシテ人たちに脅威を与えるほどの大きな勢力となっていました。ペリシテ人の王であったアビメレクは、イサクたちを恐れ、かつてアブラハムが住んでいた地にイサクたちを追い返そうとしました。
イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住みました。べエル・シェバの方向に移動しました。イサクは、移動しつつ彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘りなおしました。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたもので、よそ者には使えないように隠していました。アブラハムに対してもペリシテ人には恐れがあったのですが、その時はまだ争わずに、アブラハムの死後に井戸をふさいでしまいました。
かつて栄えていましたが、神様に滅ぼされたソドムとゴモラの町も死海の近くにあり、荒れ地となっていました。イサクは、掘りなおした井戸に父アブラハムがつけていた名と同じ名をそれらにつけました。
争いを避けるために
これは、イサクが父アブラハムから相続したと考えていたからそのようにしたのです。父に与えられた神様の祝福が、いま自分に受け継がれているのだから、父のものを受け継いでいるという意味でも父の付けた名前で呼んだのです。そして、イサクはアビメレクと対立するよりも、父アブラハムに祝福の約束をくださった神様を信じ続けていきたいという信仰にたっていました。イサクの僕たちが谷間を掘っているとき、そこに新たに湧き水の出る井戸を見つけました。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセク、「争う」と呼びました。
イサクたちはそこから移り、僕たちは、もう一つの井戸を掘りあてました。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼びました。シテナは、「敵意」という意味です。イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘りました。
イサクは、せっかく掘りなおした井戸や新しく見つけた井戸について、争いにのめりこむ事はしませんでした。イサクは、争いのたびごとに別のところで井戸を掘り続けました。そのつぎの井戸については争いがなかったので、その名をレホボテ「広いところ」と呼びました。そしてイサクは「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」といいました。ようやくイサクは、信仰によって自分の井戸レホボテを獲得しました。この間、イサクはずっと忍耐しつづけました。

神の約束と忍耐
私たちが神様を信じるというのは、神様との約束に踏みとどまり続け、争いを極力避ける努力も必要ということです。そして、約束にとどまり続けるには、忍耐が必要です。
ヘブル人への手紙10章35、36節にはこう書かれてあります。
「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」
イサクは約束を堅く信じて、その結果、忍耐という神様のご性質がイサクのうちに建て上げられました。それでイサクは「平和を作り出す人」と言われたのです。
朝のデボーションから
話は少し変わりますが、私は朝のデボーションの時に羽鳥明師が書かれた「今日の知恵、明日の知恵」という本を読み続けています。1984年のクリスマスにいただいたものです。箴言20章5節に「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。」と書かれていたのが心に留まりました。私たちの「言葉」は、私たちの心の深いところから出てくるものであるというのです。
コリント人への手紙第一2章11節に「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」と書かれています。神様の霊から、あらゆる英知が湧き出してくるということですから、神様の思いや知恵は、聖霊を通してしか知ることができません。
私たちの周囲で起こっている問題について、問題の本当の要因や原因を知ることはとても難しいことです。それらの問題は、関わっている人たちの心の奥深い部分の隠れたところにあることが関係しているので、その人たちにしか真実はわからないということです。
ですから、私たちには、争いを避けるために聖書の御言葉と知恵が必要ですし、聖霊を通して祈り、イエス・キリストを通して、お互いに理解し合えるように祈り合うことが必要なのです。

シャローム(平和・平安)をつくる者として
話をもどします。イサクは平和を作り出す人と言いましたが、イサクは平和に過ごすことを切に望んでいたと思います。
イエス様は、マタイの福音書5章9節で「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」と教えてくださいました。
パウロは、ローマ人への手紙12章18節で「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」と言いました。イエス様は、平和の象徴、平和の君として私たちの所に来てくださいました。イエス様は私たち人類のすべての罪を一身に負い、贖いの死を遂げて下さり、更に死から甦られました。「真の平和・平安」は、イエス・キリストの十字架による救いによってしかもたらされません。
弟子たちが、イエス様が十字架にかけられ意気消沈し、周囲を恐れ恐怖に脅え家の戸に鍵をかけて部屋に閉じこもっていた時にも、甦られたイエス様は弟子たちの真ん中に立って、傷ついた手とわき腹をお見せになって「あなたがたに平安があるように」と言われたのです。(ヨハネの福音書20章19節)
神様によって祝福されている、守られている、豊かに恵みが与えられている、神様との交わりの中にいるという信仰生活そのものの祝福を「シャローム、平和・平安」と聖書は語っています。神様の平和のメッセージが人々に宣伝えられるところには、聖霊の働きによって平和が宿ります。
私たちは、身近な人間関係、人間社会において平和をもたらすように求められていますから、まず神様と人間との関係に平和が実現するよう、希望をもって祈ってまいりましょう。神様が平安を与えて下さいます。
文化の違いを学ぶ機会
先週の金曜日に、私の勤務先のバングラデシュ食材店にかわいらしいお客さんたちが来店されました。近くの赤羽保育園の子供たち10人ほどが、2班に分かれて、お泊り保育で作るカレー用のオリジナルスパイスを調達しに来たのです。店長が対応し、カルダモンホール、クミンシード、コリアンダー等を購入して頂きましたが、いずれもさっぱりとしてすがすがしい香りを与えてくれます。今は、小さい時から色々なことを学び世界のことを理解していくのだと感心しました。 私たちの人生には毎日いろいろなことが起こり、大変なこともありますが、神様は、今はわからなくてもやがてすべてのことを明らかにしてくださり、よく頑張ったねといって、私たちを迎え入れてくださるに違いないと思います。やがて、イエス様、父なる神様、聖霊と共に永遠に生きる希望・約束を与えられていることを信じ続けて生活していくことこそが、平和を作り出すことにつながります。


