「愛の二本柱」 マルコ12章28~34節 2022年9月11日
2022年9月11日(日) 礼拝メッセージ
聖書 マルコによる福音書12章28~34節
説教 「愛の二本柱」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
イエスは答えられた、
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
(マルコ12章29~31節)
【新しい文化】
昨日、来月挙式予定の二人と結婚カウンセリングの時を持ちました。新郎となる男性に「あなたはこれからクリスチャンの女性と結婚しますが、どんなことを考え、思っていますか」と聞いてみました。すると彼は、「彼女がクリスチャンで、牧師先生に結婚式の司式をしてもらうので、自分なりに図書館に行ったりしてキリスト教のことをいろいろ調べてみました。僕は無宗教だけど、なぜクリスチャンは毎週礼拝のために教会に行くのか、何がメリットなのだろう、と僕なりに理解を深めています。」とのことでした。受け身でなく、様々な疑問を持ち、彼にとって新しい文化を学んでいることを伺い、とても嬉しく思いました。カウンセリングの最初と最後に一緒に祈り、彼の「アーメン」の声に励まされながら、新郎となる男性の救いが近いことを重ねて祈りました。
日本でクリスチャンはマイノリティ(少数派)なので、クリスチャンとの結婚を望んでも出会いが少ないかもしれません。でもキリスト教式で結婚式を挙げるカップルは多くおられます。神様の許しの中で出会った二人が愛を育む過程において、神の愛を知るお手伝いができるなら感謝です。
【ある律法学者の質問】
さて今日の聖書の箇所に参ります。主イエスは弟子たちと一緒にイスラエル各地を回り、人々に神の愛の教えを説き、病人を癒しました。主イエスの教えを聞いた群衆は驚嘆します。マルコ11章~12章を見ると、主イエスの教えに人々がなびくことを恐れるユダヤ教の主だった人たちが、主イエスに議論をふっかけるためにわざわざ会いにきます。どうにかして主イエスにギャフンと言わせたかったのです。「ユダヤ教の主だった人たち」とは、祭司長、律法学者、長老、パリサイ人、ヘロデ党の者、サドカイ人です。しかし、主イエスは彼らの下心や悪意ある質問を次々と見事に論破します。その論破を見ていた一人の男性が最後に質問をします。
「ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、『すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか』。」(28)
皆さんも今までに数多くの質問を誰かにしてきたと思います。私も小さい頃、分からないことがあればすぐに周りの大人に質問をしました。でも大人になって質問をすると、ある先生から「自分で考えて調べてみなさい」とよく言われました。私があまりにも安易に答えをもらおうとする態度であったと反省しています。今でも私は懲りずに一番近くにいる夫にいろんな質問をしますが、いつでも答えが返ってきて感心し、尊敬の念が増しています(笑)。
【一番重要な二つの命令】
主イエスに質問をした律法学者は「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と聞きました。律法学者が質問するのですから自分なりの答えを持って聞いたと思います。当時のユダヤの社会で「どの教えがより重要で、どの教えが小さな教えか」という質問は、律法学者やパリサイ人の間ではよく交わされていた質問のようです。
主イエスは大工の息子で、律法学者のように教育を受けたわけでもありません。当時、旧約聖書は巻物でシナゴーグ(ユダヤ教の神殿)に置かれ、誰でもいつでも自由に読むことはできるわけではありませんでした。主イエスは質問に対して、どの戒めが重要かというより、律法全体の核心を申命記6:4-5とレビ記19:18を引用してはっきりと答えます。
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。(29-31)
「イスラエルよ、聞け(シェマ、イスラエル)」とありますが、この呼びかけはイスラエルの民が神に選ばれエジプトから救い出され、荒野を導かれた民族なのだということを思い起こさせる一文で、「神の愛を受ける者たちよ」という意味も含みます。恵みを受けたイスラエルの民は当然のように心から唯一である神を愛さなければならなかったのです。一方で、当時のローマやギリシャは多神教の文化を有していました。
主イエスが引用されたレビ記や申命記は、「〇〇しなさい、〇〇してはならない」とたくさんの命令と禁止事項が記されています。しかし主イエスは、律法を厳しい戒めとしてだけでなく、その中に存在する「愛」を明らかにしました。そして膨大な戒めを「愛の教え」として二つにまとめました。主イエスは「自分でシナゴーグに行って読んで研究しなさい」とは言われなかったのです。
最も大切なことは神を愛し、隣人を愛することだと教えてくださいました。原語では全体・完全を意味する形容詞ὅλοςが「心(καρδία)・いのち(ψυχή)・知性(διάνοια)・力(ἰσχύς)」の前に置かれ、それらの名詞にかかっています。「心と精神と思いと力をつくして」とありますが、これらは人の存在・人格の中心であり、つまり全身全霊・全存在で神を愛することです。因みに「知性」は申命記には記されていません。
「第二はこれである」とありますが、基数でなく序数が使われていることで序列化し、二種類あることを示しています。
二種類とは、「神を私たちの全存在を尽くして愛すること」と「隣人を愛すること」です。これを「愛の二本柱」と呼びたいと思います。でも実際にこの戒めを守り続けることチャレンジングなことです。普通は隣人を愛し、敵を憎むことが一般的ですがイエス様は、次のようにおっしゃいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。…あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。」(マタイ5:44,46)
使徒パウロも「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」(ローマ12:14)と勧めています。
主イエスの求める基準は、隣人がたとえ敵であっても愛することなのです。自分の身近な人や家族、好きな人だけを愛するのでなく、自分の前に現れ、置かれる様々な人を愛するように促してくださっています。
しかし、人は「愛しなさい」と命令されて心から愛することできるものでしょうか。難しいと思うのが関の山です。反対に「愛することを止めなさい」と言われても止められないものです。律法の禁止や命令は人が間違った道に行かないようにあえて基準を設けてくださった神様の愛の心の表れです。
【私の神学校時代】
私が卒業した神学校は、在学中の四年間は恋愛禁止でした。学びに専念する時間が与えられたことは確かです。しかし全校生徒が多くない中で、敵でないのに愛せない学生がいて、自分自身の内面が非常に汚く思えた時期もありました。神学生でありながら、神を愛していても、隣人を愛せない自分自身という現実を突きつけられたのです。寮生活でも授業でも毎日顔を合わせ、夕飯後の御言葉と祈りの時があり、順番にメッセージの当番もあります。自分が御言葉を語る番になると偽善者のように感じました。
ある日、どうしようもなく食事後に「私は皆さんを心から愛せない者です。どうかこんな私のために祈ってください」と勇気を振り絞ってお願いしてみました。即座に、一人ひとりが心を込めて私のために祈ってくれました。その言葉を全身で受けながら、目に涙がにじみ心が温かくなったことを覚えています。少しずつ素直になることが出来、些細な事でも共に笑い合えるようになり、お互いにぶつかっても神様の愛で包まれているのが分かりました。自分の中の葛藤もどんどん小さくなって行きました。学びにも身が入るようになったのもこの頃です。今では祈ってもらった仲間は戦友です。愛することにも段階があります。あなたにとっての隣人とはどなたでしょうか。
【心の決意~祈り~救いへ】
私の四年間の神学校時代は、恋愛こそしませんでしたが、自分が苦手だなぁと思う人を分け隔てなく愛するようにとチャレンジの日々でした。そこから私が学んだことは、愛することの第一歩として「私は〇〇さんを愛します」と決断をすることです。例え心が伴わなくても心で決意し、祈りから始めるなら0%の愛から1%、5%、10%、50%と確実に増して行くのでした。神様が相手の中に尊いと思えることを見せてくださるのです。今までは無理だとシャットダウンしていた心の鍵をそっと開けることが「私は〇〇さんを愛します」との決断です。神様を愛することは実は信仰の告白であり、救いに至る道なのです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:9-10)
【愛の二本柱】
二本の柱を想像してみてください。どのように二本を据えたでしょうか。愛の二本柱は両端に独立して立っているのでなく、二本の柱が縦と横に重なり交差した一本の十字架です。縦の柱が神を愛する柱で、横の柱が隣人を愛する柱です。そして、二本が重なって初めて十字架になるため、お互いが必要とされます。神を愛することは隣人を自分自身のように愛することで現わされ、隣人を愛するためには、神を心から愛さなければならないからです。ですから、この二つの命令は一つの命令です。
キリスト教は最初はユダヤ教の一派として考えられていました。主イエスは神の子として律法を破棄するためでなく、完成するために来られました(マタイ5:17)。そして律法が復唱し守らなければならない戒めでなく、律法の中にある神の愛に気付かせてくれました。Ⅰコリント13章に「もし愛がなければ、わたしは無に等しい。…もし愛がなければ、いっさいは無益である。」と使徒パウロは後に書いています。
主イエスの答えを聞いた律法学者は、主イエスに同意します。
「そこで、この律法学者はイエスに言った、『先生、仰せのとおりです、「神はひとりであって、そのほかに神はない」と言われたのは、ほんとうです。また「心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する」ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです』。」(32-33)
良い意見や考えに対して同意をすることはある意味、自由に誰でもできます。同意をした者はそれを生活の中で行うことを求められます。魂のないからだが死ぬのと同じように、愛のない行いも死んだ者です。成熟したクリスチャンとして私たちはすべての行いに愛を注ぎたいと思います。
【愛の十字架】
すべての関係性に潤いを与えるのは愛です。律法を通して厳しさの中に存在する神の愛に出会うことできます。それを明らかにしたのがイエス・キリストです。主イエスは律法学者に「あなたは神の国から遠くない」と言われました。
一方で主イエスは十字架に一緒に架かった一人の強盗に対してこう言います。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)
律法学者は神の国から遠くない位置にいますが、死を前にした強盗はイエス様と一緒に今日、パラダイス(神の国)にいると宣言されたのです。この位置の違いは何でしょうか。自分自身が罪人であると認め、全面的に主イエスに委ねているか否かです。主イエスの十字架で人は振われるのです。十字架は神の愛の結果ですが、罪に対してははっきりとしたNOを突きつけます。愛の十字架の向こう側には神の国があります。
愛の十字架はすでに完成していますが、主イエスは自分の十字架を負って共に立つ者を探しておられます。神の国目指して、お一人ひとりの内に、愛の十字架の柱が完全に打ち立てられますように。今日が恵みの時、救いの日となりますように。
「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:27)
「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(Ⅱコリント6:1-2)
注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。