Ⅰコリント1:18-25「十字架のことば」

2024年3月3日(日)礼拝メッセージ

聖書 Ⅰコリント1:18-25、詩篇19:7-14
説教 「十字架の言葉」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」

Ⅰコリント1:18-19、25

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
 主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
 …わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
 どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
 あなたの前に喜ばれますように。」

詩篇19:7-8、14

三月最初の礼拝の日を迎えました。今年のイースターは3月31日です。今日は午後にヴィオラコンサートが予定されています。神様が備えてくださった全ての恵みに感謝いたします。

ある人がこう言いました。「この世界は二つに分けられる。①キリストを信じている人たちと、②信じていない人たちに分けられる」と。使徒パウロは「十字架」を、キリストを信じる者と信じない者を分ける絶対的な規準としました。またパウロは「十字架につけられたキリスト」を知ることに生涯をかけた男でもありました。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2)

今朝、開かれたのコリント人への手紙は、パウロがコリント教会に宛てた手紙です。一世紀にローマ帝国の領地だった南ギリシャの商業都市コリントは「新約聖書のラスベガス」と表現するなら想像が容易につくかもしれません。ギリシャ語でコリンティゾマイ(コリントの人々のように行う)とは、「不道徳になる」という言葉と同義語だそうです。

パウロは教会を建てることが到底難しいと思われるコリントで宣教活動をし、教会を建てました。しかし、クリスチャンになっても世の中の影響を受けるものです。パウロが去った後、次々と教会内に問題が出てきました。パウロが手紙を書いた理由は、そのような問題を耳にしたからです。問題とは、仲間割れ、争い、分裂、性的な不道徳、教会員間の訴訟、また偶像に献げたものに対することなどについてでした。他にもあらゆる混乱や論争が絶えませんでした。パウロはそれらの問題について手紙で解決策を示し、神に従って生きるべきだと書き送ったのです。

私たちが問題や課題を抱えている時、親身になってアドバイスをくれたり、祈ってくださる存在は何と嬉しいことでしょうか。

【十字架は神の力】

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。」(18-19)

「十字架のことば」の「ことば・ロゴス」とは、言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)イエス様ご自身を表しています。つまり、「十字架のことば」とは、イエス様が私たち罪人を救うために身代わりとして十字架で死なれたメッセージ・教えのことです。この教えは聞く人たちによって様々な反応を呼び起こします。

①十字架のことばは、常識的な人ほど理解が難しい?

私が献身前に働いていた会社に、辞職願を提出した時のことです。理由を聞かれたので「キリスト教の牧師になるために、東京の神学校に行くので辞めます」と正直に伝えました。するとある女性の上司が私を食事に誘ってくださいました。食事後、「お茶でも飲みましょう」と上司の家に行きました。高級マンションの最上階フロア全てが彼女の家でした。お茶を飲みながら質問タイムとなりました。

「牧師になるって聞いたけど、イエス・キリストは処女マリアから生まれて、十字架に磔にされて死んでよみがえったことは本気で信じているってことなの?」

「はい、そうです」

「あなたが羨ましい。私は一生懸命働いて稼いだお金でこのようにマンションも買って、欲しい物はほとんど手に入れたけど、何かが足りないのよね。あなたはお金はなさそうだけど幸せそうね。あなたが羨ましい」

私は、上司に自分の証しをして、なぜ私がイエス様を信じて献身の道を進むのかも話しました。でも上司は最後に「あなたを応援するけど、イエス・キリストの十字架の話は、私には理解できない」とはっきり言いました。この上司が言った言葉は常識的な一般人の反応だと思います。ですから上司から見ると、イエス様の十字架と復活の話を信じている私は不思議な人に見えたでしょうし、理解できないとおっしゃったのだと思います。もし私が教会に行ったこともなく、大人になってただキリストの十字架を説明されるなら、上司と同じことを言ったと思います。

「十字架のことば」は理性や経験や常識だけで理解はできません。つまずきに満ちているからです。しかし、聖霊が働いて心が開かれ、「神が私のために死んでくださった」という個人的な関わりを受け留めることが可能になり、信じることが出来るのです。その時、神は生きておられるとはっきりと知ります。これこそ「神の力」なのです。「十字架のことば」は福音の内容を受け取る者には救いをもたらす神の力となるのです。

②十字架の言葉は二者択一の道

「救われる者」と対極に位置している人たちが「滅びる者たち」です。滅びるとはとても強い言葉です。「あなたは滅びる者です」と面と向かって言われるならショックを受けると思います。しかし聖書は言います。十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」と。つまり信じない者たちには、何の力も作用もないというのです。神に在っては、救いと滅びの道しかありません。パウロは他のパウロ書簡で「滅びる者たち」について次のように言及しています。

「また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。」(Ⅱテサロニケ2:10)

滅びる理由がはっきりと述べられています。自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからだと。マタイ25章では、一方の人々に王様は「あなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(34)と言い、もう一方の人々には「『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」(41)と言い放ちます。何と厳かなことでしょうか。救われていると思っている人も油断してはいけません。恵みから落ちることもあるからです。ノンクリスチャンが知らないで犯した罪より、クリスチャンが知っていながら犯す罪は質が悪いのです。

③十字架のことばは日々必要な力

去る金曜日は私の母校である神学院の第35回目の卒業式でした。青年会を担当していた時の青年が卒業するというので、参加をしてきました。その時の礼拝でヨハネ14:6と詩篇86:10-12より「真理に生きること」とメッセージが取り継がれました。説教された先生は、「真理とは絶対に間違いのないものであり、キリストに在って実現したことです。真理はキリストの十字架と復活の力です。それは罪の力を打ち砕く力であり、それだけでなくこの地上で私たちが生活をするために必要な力です」と語られました。私たちは救いを受けたなら、十字架のことばをもって真理に生きることが求められるのです。

④十字架のことばは、神の知恵・福音

パウロはイザヤ29:14を引用して、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と言いました。また続けて「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった」(20-21a)と、この世の知恵や自分が悟りある者であると高ぶる者は、十字架のことばである真理を悟ることができないのだとはっきり言いました。その背景には、自分たちは高い水準の文明や知恵を誇るギリシャ人がおり、しるしを求めるユダヤ人の存在がありました(22)。パウロは人々の興味・関心や人気を集めようとする知恵ある者や学者を堂々と批判しました。

「それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」(21)

十字架のことばは、イースト菌が入ったパンがどんどん大きくなるように、広がり見せ、宣教のことばとなります。この世の人には愚かに聞こえることばかもしれませんが、人の心を変えることができるのは人間の知恵や知識によることばでなく、純粋な福音なのです。十字架のことばはあなたにどのように働いているでしょうか。

【十字架につけられたキリスト】

「しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(23-25)

 ユダヤ人とギリシャ人は「十字架のことば」に秘められた救いの奥義を知ることができませんでした。十字架は呪いの象徴なので、十字架で死んだ方が救い主であることが愚かに見えたのです。しかし、その「愚かな十字架」に神様はご自分の力と知恵を示されました。人間には想像もできない神の知恵です。

 大学一年生の時に友人とベトナム旅行をしました。子どもたちが観光客にハガキなどを売っていました。そのような子どもたちから話を聞くと、自分の境遇がどれほど大変なのかを強調し、「助けて欲しい」と訴えるのでした。「日本に留学したいからスポンサーになって欲しい」「養子にしてくれ」とも頼まれたりもしました。

一人の少年と話した時、にこにこしながら彼はこう言いました。「僕の家は貧乏だけど、僕はとても大切なものを持っているから大丈夫なんだ」と。すかさず「あなたのとても大切なものは何?」と聞くと胸を叩きながら「ここにイエス様を持っている。僕はクリスチャンなんだ。毎日ハッピーだよ。僕はハガキを売りながらイエス様の話をしているんだ。」と言ったのです。思わず私も自分の胸を叩きながら「私もここにイエス様を持ってる。私もクリスチャンだよ」と言いました。彼が持っていたハガキはボロボロでしたが私は買いました。ベトナムはフランスの植民地でしたので、教会が立派な建築物としてあり、建物の上には十字架が輝いていました。この少年は今頃何をしているのでしょうか。

パウロはこう述べています。

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:11-13)

あの少年は自分の境遇に嘆くことなく、大切な十字架のことばを愚かなものと考えず、信じて、宣教のことばとして彼なりに伝えていたことを今でも思い出します。

新聖歌117番「栄えの主イエスの」(讃美歌142番・Isaac Watts 1674-1748)の歌詞が心に響きます。

1.栄えの主イエスの 十字架を仰げば
  世の富誉れは 塵にぞ等しき

2.十字架の他には 誇りはあらざれ
  この世のものみな 消えなば消え去れ

3.見よ主の御頭 御手御足よりぞ
  恵みと悲しみ こもごも流るる

4.恵みと悲しみ 一つに溶け合い
  茨はまばゆき 冠と輝く

5.ああ主の恵みに 報ゆる術なし
  ただ身と魂とを 献げてぬかずく

新聖歌117番「栄えの主イエスの」(讃美歌142番・Isaac Watts 1674-1748)

恵みと悲しみが一つに溶け合い、流れる場所はキリストの十字架しかありません。十字架は本来死刑の道具で、死の象徴ですが、キリストが死からよみがえったことにより、十字架が掲げられるようになり、命をもたらすものとなりました。イエス様が私たちを救うために、命をかけて臨んでくださった十字架の恵みに、私たちはどのように応えたら良いのでしょうか。

詩篇19篇は、神のことばが「主のおしえ、主の戒め、主の仰せ」と言い換えられています。そこに「十字架のことば」と言い換えるならイエス様がはっきりと浮き彫りにされてきます。どうぞこの世では愚かにみえる「十字架のことば」を大切に、十字架の道を伝えるものでありたいと思います。そして十字架の福音が豊かに人々の中に光り輝いていきますように、と祈ります。

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
 主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
 …わが岩、わがあがないぬしなる主よ、
 どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが
 あなたの前に喜ばれますように。」

詩篇19:7-8、14