1サムエル8:1-22「私たちの王は誰か」
聖書 1サムエル8:1-22、12:22-24
説教 「私たちの王は誰か」
メッセージ 堀部 舜 牧師

1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。3 しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。4 イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、5 彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
6 彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。7 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」
…19 しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。20 そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」21 サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それを主の耳に入れた。22 主はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。
1サムエル8:1-9,19-22
20サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。21…22主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。23…24あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。
1サムエル12:20-24
心の王座を明け渡す:画家・井上達夫さん
キリスト教のTV番組のライフラインの10年以上前の放送で、画家の井上達夫さんという方のインタビューがありました。
画家の井上達夫さんは、若い頃、自分は何のために絵を描くのか分からず苦しんでいました。海外を旅しながら絵を描いていましたが、自分の将来への不安や、「何とか自分の力で人生を切り開かなければ」という重荷を抱えていました。ある時、クリスチャンの友人からこう言われました。「心の王座にあなた自身が座っているから苦しいのではないですか。その王座を神様に明け渡してみたらどうですか。」最初はよく分からなかったそうです。しかし心の中で、自分が王座から降りて、そこに神様が座られる姿を思い描いてみました。
すると不思議に心が軽くなったと言います。それまでの彼は、絵が描けない自分を責めていました。成功できない自分に価値がないと思っていました。しかし神を人生の王として迎えた時、「絵を描けても描けなくても、神は私を愛しておられる」という土台を得ました。そして、人に認められるためではなく、神に与えられた賜物として絵を描けるようになったそうです。[①]
背景
【私たちの王は誰か?】 今日のテーマは、「私たちの王は誰か」です。この夏は、イスラエルの最初の王、サウル・ダビデ・ソロモンの物語を見ていきます。▼8:7では神様ご自身が「わたしが王として彼らを治めている」のだと言われます。[②]イスラエルの王の物語は、「イスラエルを治める神様」の物語と言えます。▽それは、やがてまことの王イエス・キリストによる「神の国」の到来へとつながります。イスラエルの王たちの歴史を学ぶことは、救い主イエス・キリストの到来の主要な背景を知ることです。
【時代背景】 日本の歴史では、古墳時代に各地に有力な豪族たちがいたのを、倭国が統一していきました。これから取り上げる時代は、ある面ではそんな時代かもしれません。(ちょっと違うかもしれませんが。)それ以前には、士師と呼ばれる有力者たちがイスラエルの諸部族から出ましたが、やがて、イスラエル全体を統一する王が立てられます。その時期の信仰面から記録したのが今日の8章の記事です。
【サムエル】 1節に出て来る預言者サムエルは、最後の士師(さばきつかさ)とされます。サムエルが生きている間は、主がイスラエルを守っておられましたが、8節にあるように、イスラエルは神様を捨てて他の神々に仕え、イスラエルの国は弱くなっていました。そこで、イスラエルの長老たちは集まって、サムエルに言います。8:5「…今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
1.神の支配で十分だと信じているか
神の支配への不信仰
イスラエルが求めたのは王でした。しかし神は言われます。「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである」(8:7)。問題は王政そのものではありません。神は後に王をお認めになります。問題はその心でした。
イスラエルは、神が共におられ・神が導いておられ・神が守っておられたのですが、人々はそれでは不十分だと思ったのです。だから、「われわれも他の国々のようになり」たいと願い、王を求めました(8:20)。神の民としての特権よりも、目に見える安心を求めました。その根底にあったのは、「神の支配では足りない」という不信仰でした。
【支配したい】 私たちも同じです。神様の支配に信頼できず、不安になります。そうすると、自分で管理して、自分でコントロールしようとします。自分の期待通りに動かないと、あれではダメだ、あの人はダメだとさばきます。自分の力で物事を動かそうとします。
ある神学者がこう言いました。人間は「自分で支配できる神を求める」[③]。神を王として迎えるよりも、自分が王座に座ったまま、神に手伝ってもらいたいのです。しかし信仰とは反対です。信仰とは、自分が握っている支配権を神に委ねることです。
聖霊により頼む
先週、私は3日間の聖書カウンセリングセミナーに参加しました。講師のオキナガ先生は、アメリカの神学大学の教授で依存症の専門家で、自分自身が13年間のアルコールと薬物の依存症から回復された方です。先生は「依存症プログラムが人を変えるのではない。御言葉を通して働く聖霊が人を変容する」のだと教えています。それは、医療やコミュニティの支援を軽視しているのではありません。聖書が与えるバランスの取れた知恵によって、それらをより良く用いることができるのです。(偏った不健全な聖書理解が問題をこじらせるケースが山ほどあるので、バランスの良い聖書理解が非常に重要です。しかし、)聖書を通して働く聖霊こそが人間の心を変えて、真の変革を導くのです。だから、オキナガ先生は、相談者に対して、何よりも聖書を読むことを勧めます。「御言葉に人生がかかっているように聖書を読みなさい」と。
イスラエルは、「神が支配しているだけでは足りない」(王が必要だ)と考えました。私たちも「神の言葉だけでは足りない」「神が共におられるだけでは足りない」と考えることがあります。そうなると、焦って自分の力で頑張ってピリピリし、お金や人や状況に安心を求めるようになります。
しかし本当に問われているのは「神の支配に信頼しているか」です。▽私は何を失うことを恐れているでしょうか? 私は自分の価値を何によって感じているでしょうか? 私は何によって喜びと安心を求めているでしょうか? ▽お金や友人や仕事が必要でない、という意味ではありません。それらを与えてくださるのは神であることを信頼しよう、ということです。
8:7 …「彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。」
2.「奴隷となる」ということ
ほかの神々の「奴隷となる」
8:8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
「ほかの神々に仕え…」とは、「奴隷となる」という言葉です。神に仕えることを選ばなければ、他のものに仕える=その奴隷となることになるのだと言われます。「何に仕えるか」ということは、新約聖書でも出てきます。
ローマ6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
マタイ6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
イスラエル人は、主を王として仕えるのをやめて、「ほかの全ての民のように」「ほかの神々に仕える」ことを求めました。彼らはそれによって自由になると考えたのですが、神様は9節以下でサムエルを通して王の権利を伝えます。主を捨てて別の王を立てることは、その奴隷となることでした。

神を神とする
先ほどのオキナガ先生は、若いころから教会に行っていたのですが、当時は神様をサンタクロースのように考えていたそうです。良い人の願いに答えて、プレゼントをくれる方、という意味です。ところが、17歳の時、愛する敬虔なお母さんが病気で苦しむのを見て、神への怒りを抱きました。彼は回復の過程で聖書を必死で読み、自分が苦しみの中で自分のために何かを求める自己中心であった罪に気づき、「神を神とする」ことを学びました。▼「神に従う従順の報酬は、従順それ自体である」と言います。神に仕えることによって、何かの見返りがあるのではありません。従順によって、神との関係が回復し、正しい関係に戻ること。それこそ真の報いなのだと教えています。
【サムエルの模範】 イスラエルの民が神の支配を拒んだとき、「サムエルが主に祈ると…」とあります(8:6)。彼は自分の知恵と判断に頼らず、神の御心を求め、それに聞き従いました。ここに、成熟した信仰者の模範があります。民の拒絶は、サムエルに対する拒絶でもありましたが、サムエルは主を王として、謙遜にその導きに従い、民の提案を受け入れ、民に警告を与えました。
【民の頑なさ】 一方、民はサムエルの警告を聞き入れません。
8:19 …「いいえ、われわれを治める王がなければならない。20われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
この出来事の後にイスラエルに王が立てられることを考えれば、王がいること自体が問題なのではありません。むしろ「われわれも他の国々のようになり」という言葉に表れているように、彼らが神の民のアイデンティティを捨て、神を拒否したことが問題でした。
適用
もし私たちが、神様をサンタクロースのように考えて、神様に従うことに見返りを期待しているなら、遅かれ早かれ失望することになります。神様を愛するために従うのではなく、人からの評価や批判を気にして従っているのなら、人からの評価が変わると不満や苦々しさが出てきます。
「神様が支配しておられる」ことに信頼しない時、私たちは神に頼らず、自分の努力で獲得しようとします。獲得できなければ焦り・疲れ果て、獲得すれば神への感謝よりも自分を誇ることが先に出てきます。
神が教会を導いてくださることを信頼できないとき、私たちは自分が教会を動かそうとします。神が一人ひとりを変えてくださることを信頼できないとき、私たちは自分が人を変えようとします。神が裁かれることを信じられないとき、私たちは自分が裁こうとします。その時、私たちは神に仕えているつもりで、自分の正しさの奴隷になっています。そして、自分も人も苦しくなってしまいます。
8:7「…彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。」
私たちは「神を神と認めて」、神が支配しておられることを認めましょう。教会にあってもこの世にあっても、主が支配し働かれることを信頼して期待しましょう。自分でコントロールすることをやめ、主に祈り、従い、主の導きにゆだねてまいりましょう。
3.神の支配の中に生きる
イスラエルの民は、王を求めて、他の民のようになることを願い、主の支配を拒みました。しかし、神様は王を与えてくださいました。王がいるかいないかは問題ではありませんでした。民が神を求めるかどうか、神とどのような関係であるかが問題でした。
今日の8章の後で、神様はイスラエルの最初の王サウルを任命し、隣国アンモン人との戦いに勝利して、王位が確立します。イスラエルの統治者としての務めを引き継いだサムエルが、12章で述べた言葉に、イスラエルのための指針が示されています。
1サムエル12:20 …「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。21…22主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。…23…24あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。…」

「アイデンティティ」と「聴従」
「主に仕える」とは、主の僕となること、主の支配の下に生き、主に従うことです。そこには、①すでに据えられている「神の民」のアイデンティティと、②今を御言葉に聞き従って生きる「生き方」があります。
①私は何者か?:アイデンティティを思い起こす
聖書的なカウンセリングでも、行動が変化する以前に、その土台として、私たちのアイデンティティがしっかりと据えられていることが大切です。▼私は、牧師であり、40代の男性であり、夫です。でもそういう職業や属性や役割以上に、「神との関係」が私たちの存在の根本的なアイデンティティになります。▽私はクリスチャンとして、「新しく創造された者」「神の作品」です。「神の子ども」であり、「子とする御霊」を頂き、「神の家族」とされました。「神に選ばれた者」であり、「赦されている者」です。「罪に支配されておらず」「罪に定められることはありません」。「キリストと共に生きる者」であり、「キリスト共に座す者」であり、「聖霊の宮」とされ、「義の僕」となりました。「天に国籍」を持つ者であり、「圧倒的な勝利者」であり、「神に愛されている者」であり、「キリストの御手から私たちを奪う者は誰もありません」。▼クリスチャンにとって、これらは恵みによってすでに据えられている土台です。これから獲得する必要はありません。すでに据えられた土台を絶えず思い起こしつつ、聖霊と共に、主に「従い・仕える」歩みに進むのです。
②主に仕える:主の命令に聞き従う
主に仕えるとは、「主の命令に聞き従う」ことです(12:14)。パウロはこのことを、肉体を「情欲に従わせることをせず」「不義の武器として罪にささげてはならない」、むしろ「義の武器として神にささげるがよい」と言います[④]。▼それは、サムエルが主に祈り、主に聞き従ったように、私たちも主に祈り、聖書の教えに聞き従うことにあります。(もし聖書の教えに完全に聞き従うことが問題をもたらすと感じているなら、聖書理解が正されなければなりません。健全な聖書理解が、健全で幸福な生き方をもたらします。でも、徹底的でなければなりません。)
これが、サムエルがイスラエルの民に教えたことであり、「主を王として」、「主の支配の下に生きる」ことです。
弱さと向き合う:ベーテルの老婦人
ご高齢の教会員のY兄が、今週から段階的にYouTube礼拝に移行されることになりました。ご高齢の方々のことを思っていた時に、ドイツの「てんかん患者の家ベーテル」を始めたボーデルシュヴィング牧師の説教を読みました。「弱さといかに向き合うべきか」という説教で、ベーテルの一人の高齢の婦人の姿を描いています。
その女性は、長年、病気の人たちに仕えてきましたが、高齢で身体が弱くなり、今では震える手で入所者たちのためにわずかな靴下を編むくらいの奉仕しかできなくなっていました。しかし、その女性は確信をもっていました。彼女のかつての奉仕とは比べようもない、取るに足りないような靴下編みの奉仕によってこそ、聖なる愛の種を蒔くことができるのだと。そして、肉体が疲れ弱り、地上の最後の時が近づいていることが、妨げではなく、自分の人生の前進であり、「神の国へと向かう前進」なのだ、と言います。
パウロにとって、彼が投獄されたことは、「福音の前進に役立った」ことを知り、「心楽しく、感謝の思いに満たされて手紙を書きました(ピリピ1:12)。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)。
私たちの幸福と成功は、私たちの業績の多さや人生の楽しさではありません。人生の成功と幸福は、神がなしてくださる神の業によるのだと、ボーデルシュヴィング牧師は言います。そうであるならば、私たちの肉体の弱さも、神の前で私たちを助けるものとなるのだと教えます。[⑤]
私たちの成功は、「何を達成したか」ではなく、「主に対してどのように従順であるか」によって決まります[⑥]。「何をしたか」ではありません。「どのようになしたか、信仰と愛の姿勢」にかかわるのです。

1サムエル12:22 主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。…23…24あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。…」
「主を王として、主に仕える」とは、すべてを支配しておられる主に信頼して、その御言葉に従うことです。目に見える成果や達成感は、重要ではありません。むしろ、己に頼ることのできない弱さの中でこそ、神の恵みと力が現れます。そこでこそ、私たちはさわやかな心になって、喜びと感謝をもって主に従うことができます。「主に従うことの報酬は、従うことそのものです。」
まとめ
8:7「…彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。」
イスラエルの人々が王を求めたのは、彼らを導く主の支配に信頼せず、自分たちのアイデンティティと特権を捨てて、「他の国々と同じように」なりたかったのでした。しかし、主は彼らを捨てることなく、「あなたがたはわたしの民だ」と言われます。
私たちもしばしば、神様の良い支配に信頼することができず、不満や怒りや苦々しさを抱きます。自分の力で状況を変えようとして焦り疲れ、人を変えようとして裁き、苦しくなります。神の支配を離れる時、むしろ自分自身の奴隷となります。
しかし、私たちが求められているのは、どれだけ多く働くかではありません。王を立てるか立てないかという問題でもありません。その心が神と結ばれ、神に信頼し(=神を王として認め)、神の御心に忠実に聞き従うことです(=神に仕える)。神の御心を正しく悟るために、神の御言葉にしっかり聞かなければなりません。
そして、すでに据えられた土台=神に愛され、神の子とされたアイデンティティを絶えず思い起こし、生活の一歩一歩を聖霊により頼んで、与えられたなすべき事柄を忠実に歩ませて頂きましょう。
1サムエル12:22 主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。…23…24あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。…」
[①] http://www.hisworkshare.org/tatsuoart/profile
[②] ヘブライ語では、「王」という言葉は、「支配する」という言葉の派生語です。https://biblehub.com/hebrew/4428.htm
[③] ジェームス・フーストン「心の渇望」 第2章 神を求めて p61-62
[④] ローマ6:12-13
[⑤] ボーデルシュヴィング説教集「心楽しく、伸びやかに」上(5)「弱さといかに向き合うべきか」(鈴木克則氏翻訳・未刊行原稿を参照)
[⑥] ジョナサン・オキナガ教授、聖書カウンセリングセミナーにて

