マタイ21:23-32「あなたがたはどう思うか」

2023年10月1日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ21:23-32,エゼキエル18:1-4
説教 「あなたがたはどう思うか」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。」

マタイ21:28-30

【JCE7との関わり】

おはようございます。先週の日曜日は、JCE7から帰って来てすぐの日曜日で、Y兄にメッセージをしていただきました。あっという間の一週間であったように感じます。JCE7で私たちは裏方でしたので、集会そのものには参加することは叶いませんでしたが、それでもたくさんの祝福をいただきました。ハレルヤ!

今日は「世界聖餐日」で、世界中のクリスチャンが「神の家族」として一斉に聖餐式に与る日です。2009年の北海道大会では、聖餐式がありました。JCEは神の家族が一堂に集まります。初めに少しだけ「私とJCEの関わり」について話したいと思います。私が初めて日本伝道会議に参加したのは2000年・沖縄大会でした。大学を卒業して、就職浪人をしていた時期です。南米原住民への元宣教師のエリザベス・エリオット先生が講師でした。先生は、アマゾンの奥地で現住民の方にご主人を殺害された後も娘と一緒にその村に住んで宣教を続けた方です。先生の証しを生で聞けたことは私の人生の財産です。

この大会直後に、私は仕事を与えられました。もし就職浪人をしていなかったら、平日の伝道会議には参加できませんでした。またその23年後、岐阜大会で事務局の奉仕をするとは当時は知る由もありません。伝道会議は私の山あり谷ありの信仰の歩みの節目節目にありました。エリオット先生の言葉に「信仰があるからといって疑問が消えてなくなるわけではありません。ただ、信仰がある人は疑問をどこに持っていけばいいか知っているのです」とあります。伝道会議に日本全国からクリスチャンが集まりますが、参加者は置かれている場所で、宣教の難しさや課題を抱えて生きています。伝道会議は、そのような各自の課題や疑問を一緒に主の前に持って行き、共に祈り励まされる時であると思います。これこそ「神の家族」です。今日も「神の家族」の印としてメッセージ後に、聖餐に与りたいと思います。

 さて、今日の聖書箇所は大きく二つに分けて見て参ります。一つ目は「主イエスの権威」について、二つ目は「悔い改める者に与えられる恵み」についてです。

【主イエスの権威】

「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。」(23)

 イエス様が会堂で教えておられると祭司長、民の長老がイエス様のところにやって来て尋ねました。彼らはサンヘドリン[①](最高法院・最高議会)のメンバーであり、ユダヤ教の指導者・最高権力者です。宗教的権威はサンヘドリンにあるのに、何の権威でこのような宗教行為を行っているのかと聞いたのです。答えようによってはイエス様は捕らえられて罰を受けかねません。

「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。」(24)とイエス様は反対に質問をされました。質問に対して質問で返すという「反問」はユダヤ教のラビがとる方法で、イエス様もそうされました。質問で返されると、はぐらかされたとも思うかもしれませんが、自分がした質問に関連する質問ですので、違う角度から一呼吸置いて考えるチャンスにもなります。

「ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか。」(25a)なぜヨハネは洗礼を授けたのか、それは人間の考えでしたのか、それとも神様の命令でしたのかとイエス様は尋ねたのです。

「すると、彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』」(25b-26)

ヨハネも宗教指導者たちにとって、イエス様と同じように脅威的な存在でした。イエス様は「権威」について質問されましたが、イエス様の反問も同じように「誰の権威によるのか」という意味を秘めていました。

「権威」という言葉を聞くとどのような印象を持つでしょうか。圧を感じる強い印象を持つ方もいると思います。ある国の大統領のように、武力によって人を強制的に従わせ、従わないなら殺すこともいとわないやり方は、間違った権威の使い方です。また神の名前で自分たちの欲や利益のためにやりたい放題することも、間違った権威の行使です。イエス様が「宮きよめ」(ルカ19:45-48)をされたのは、律法を重んじる人たちが間違った権威を使い、正しいことを行っていなかったからでした。

大辞典によると「権威」とは、「他の者を物理的強制によるのでなく、命令の正しさや正当性で納得させる力」とありました。正しい権威とは、絶対的信頼があり、自発的に従いたくなる威厳に満ちたものではないかと思うのです。イエス様が反問された「天からであったか」とは、「神からの権威ですか」の遠回しな表現で、神様の名前を直接呼ばないユダヤ人の慣習でもありました。ヨハネが人々にバプテスマを授けていたのは、神からの権威によるものでした。なぜならヨハネは、イザヤの預言の通り(イザヤ40:3、ルカ1:17)にイエス様の通られる道をまっすぐにする役割をもって生まれた人だったからです。

祭司長や長老たちはもし「天からです」と答えると、ヨハネをなぜ信じなかったかと言われ、「人からです」と答えれば群衆は黙っていないでしょう。責められることになります。つまり、彼らはヨハネの権威が天から来たことを認めたくなく、且つ人々の目を意識して「ヨハネはバプテスマを授ける権威を天から授かっています」と答えられませんでした。神よりも人を恐れてしまい、はっきりと答えず、曖昧な態度で「わたしたちにはわかりません」(27a)と言葉を濁しました。もしイエス様に質問をした宗教指導者たちの中の一人でも群衆や仲間の批判を恐れず、「天からです」と答えていたなら、イエス様を取り巻く状況が大きく変わっていたかもしれません。

イエス様は「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。」(27b)と言いました。なぜならユダヤの宗教権力者たちは真実を知っていながら、自分たちの立場を守るために真実を語らなかったので、イエス様も彼らの策略に満ちた質問に真っ向から答えませんでした。これはイエス様の知恵でした。

▽私が神学校に入学する前、「神学生になるとお化粧もせず、服の色も黒や灰色を着る」という話を聞きました。それでも私はスーツケースにお気に入りの赤いコートを忍ばせて上京しました。入学してみると、確かに神学生が赤色のコートを着ることは場違いな雰囲気でした。一度勇気を持って赤いコートを着ると、ある方から「あら、似合うじゃない。でも神学院を卒業してから着たら?」と言われました。とうとう私は四年生の時に、ルームメートになった一年生の後輩に赤いコートをあげました。四年間ずっと暗い色の服を着ていたら、赤いコートを着ることに違和感を感じるようになり、卒業しても着ないだろうと思ったからです。コートをあげた後輩は堂々と赤いコートを着ていてびっくりしたのを覚えています。

当時の私は一体誰の何の権威やルールに従っていたのでしょうか。今ならTPOをわきまえて衣服を着ることをもう少し考えることができます。洋服に関することは大きな問題ではありませんが、何が事実で真理なのかを確かめようとせず、物事を有耶無耶にしたり、鵜呑みにするなら、偽りの権威に自分自身が従ってしまうことになります。私たちは疑問や課題に直面したとき、一体誰の命令・権威に従って生きているのか、神が喜ばれることか、大切にすべきことは何なのかを心に留めたいと思います。クリスチャンは神様・イエス様に権威があると捉えます。私たちは「神の子ども」として堂々と生きることができます。

神の権威を受け入れることが出来ない宗教権力者たちに、イエス様は「二人の息子の例え話」を通して、天国について教えると同時に、宗教権力者たちの実態を指摘されます。後半のもう一つのポイントです。

【悔い改める者に与えられる恵み】

あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。」(28-30)

お父さんが二人の息子に「ぶどう園に行って働いてくれ」と同じ要求をしますが、二人は全く違う反応をします。兄は「行きたくない」と言ったのに、後で思い直して出かけて行きました。一方で「行きます」と言ったのに実際は行かなかった弟です。どちらの息子に共感しますか。あなたは兄息子タイプですか、それとも弟息子タイプでしょうか。私は昔は「行きたくありません」と答えて本当に行かないタイプでした。

結局、父親の願い通りに行動したのは兄でした。弟息子は「はい」と従順な態度を示していますが、口先だけで実際は最初から行かないつもりだったのかもしれません。

「弟息子」はイエス様の権威を拒否する宗教権力者たちを表しています。そして「兄息子」は、イエス様の権威を受け入れた罪人の取税人や遊女を表しています。口先で信じると言っても、実際には主の御心に従わない人も多くいます。たちが悪いクリスチャンになってしまいます。ここで心に留めたい箇所は「あとから心を変えて、出かけた」という一節です。言い換えると「後悔して、思い直して、出かけて行った」です。心を変えて、最初に自分が発言した事柄を撤回し、違う決断をし、行動することは勇気のいることです。

▽JCE7でのことです。私は、分科会に登録していない方々のために、空席がある分科会を案内する役割を担いました。ホワイトボードに空席分のポストイットを貼り、希望者に配るのですが、既に分科会に登録された方々もいっぺんに押し寄せてきました。順番に並ぶように促しても埒があきません。すると私が以前の教会で担当した青年が伝道師として群衆の中にいました。彼が私の近くに来た時に私はこの後輩のお腹を手で押し返してしまいました。悲しそうな顔をして彼は去って行きました。私は自分の役割の故に権威を振りかざしてしまいました。彼の顔を見た途端、私は出過ぎたことをしたと思いました。鬼のような対応をしてしまった自分を悔やみました。役割を終え、お祈りをして意を決して謝罪しに行きました。彼は急に現れた私を見てびっくりしていました。私は思い直して謝りに出かけましたが、私の心はなかなか晴れませんでした。同じ分科会の担当をしていた先生に事の次第を話してお祈りしてもらい、やっと気持ちに区切りがつきました。

兄息子の「あとから心を変えて」とは悔い改めを含みます。最初から「はい、お父さん、ぶどう園に行きます」と素直に行けたら何の問題もないのですが、「行きたくないです」と気持ちをぶつけたくなるものです。その後に、「やはり僕は間違っていた、お父さんの言う通りにしよう」と方向転換をすることが悔い改めではないでしょうか。悔い改めることは二つのステップを踏む行動です。最初の反省したり悔いることは多くの人がすると思いますが、次に行動を改めることは別のことです。思い直し、悔い改めをして私たちは砕かれた心を与えられ、謙遜になることを学んで行くのではないでしょうか。

「…このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、『あとの者です』。イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。』」(31-32)

イエス様は「あなたはどう思うか」と私たち一人ひとりに問いかけてくださる方です。その時、自分の気持ちを横に置き、一度全てを白紙にして、「何が父なる神の御心なのか」を吟味したいと思います。違う決断が必要なとき、今までの歩みや考えがどうであれ「思い直すこと」で新しく満たされることを体験するはずです。私たちは皆何らかの権威の下に置かれて生活しています。様々な権威がありますが、イエス様の言葉、働き、教えの権威に従って生きたいと思います。

宗教指導者たちは、自分たちこそが律法を知っていると自負していましたが、自分の立場や領域を今更変えたくないので、イエス様の権威を受け入れませんでした。しかし、取税人や遊女たちは、お金や快楽という権威から悔い改め、イエス様の本当の権威の下に歩むことを決心して、救われ変えられて行きました。

神の国、は神の権威を信じ受け入れた者が入る国です。「お父さん」と訳された単語は「キュリエ」というギリシャ語で、「主よ」という意味です。天の父である主が、「地上」(ぶどう園)に行くようにとイエス様を派遣されました。イエス様は従順に地上へ来てくださいました。私たちも主から「私たちの行くべきぶどう園(宣教地)」へ「行きなさい」と促されています。「はい、行きます」と答えて今週も遣わされて行きたいと思います。最後にイエス様の言葉を二カ所読んでメッセージを閉じます。

「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。』」(マタイ28:18-20)

「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」(ヨハネ17:21)


[①] ローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織のこと。71人の長老たちから構成される。メンバーは祭司たち、律法学者など。