マタイ21:33-46「神の国の農夫たち」

2023年10月8日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ21:33-46
説教 「神の国の農夫たち」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

33もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。34収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。35すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。36また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。37しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。38すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。39そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。40このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。41彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が 隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。44またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。45祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、46イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

マタイ21:33-46
最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
すると農夫たちは、…彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。

【近況】 ファミリーコンサートが来週に近づいてきました。午前中の礼拝にも30人近くが参加予定です。お子さんも参加しますので、子どもも楽しめるファミリー礼拝として準備しています。楽しみにしてまいりましょう。

【ヨルダン国王フセイン1世】 聖書の箇所に入る前に、王=支配者の徳を表す一つのエピソードをご紹介します。1952~99年にヨルダン国王であったフセイン1世という方で、イスラム教徒の方です。▼1980年代初めのある夜、約70人のヨルダン軍の将校が、近くの兵舎に集まって、軍事クーデターを共謀しているという情報が、フセイン1世に届きました。憲兵隊の将校たちは、兵舎を包囲して共謀者たちを逮捕する許可を、国王に求めました。すると国王は、沈んだ顔でしばらく沈黙して考え込みました。そして、憲兵隊の要請を断って、小型ヘリコプターを用意させて、武器を持たずに兵舎に単身乗り込みました。▽そして、軍の将校たちがクーデターを計画していたその部屋に突然現れて、言ったそうです。

「諸君、今夜、君たちがクーデターの計画を仕上げて、独裁者を立てるという情報が、私の耳に入った。そんなことをしたら、軍部は分裂し、国は内戦になり、多くの国民が命を落とすことになる。そんな暴挙に出る必要はない。私はここにいる。私を殺して政権を取るが良い。それなら、死者は一人で済む。」

あっけに取られて言葉を失っていた将校たちは、皆、王の下に駆け寄って、次々と王の手足に口づけして、生涯の忠誠を誓ったと言います。[1]

「反逆の民に対する限りない忍耐と自己犠牲」と「人々の応答」。それが、今日の聖書箇所のテーマです。

【聖書の背景】

今日の箇所は、主イエスが十字架にかかられる受難週の前半の出来事です。▼主イエスは受難週の日曜日に、大群衆の歓声の中をエルサレムに入ります。そして、おそらく月曜日に神殿で、いけにえの動物の売り買いと両替をやめさせ、神殿を通って物を運ぶことを禁じました。この「宮清め」と言われる出来事では、広大な神殿全体で数時間の間、いけにえがささげることができなくなったようです。[2] ▼当時は過越祭の時期に当たり、通常の10倍もの人々がエルサレムに集まりました。過越祭は、モーセの時代にイスラエルがエジプトから解放されたことを記念する祭りでしたので、当時の人々にとっては、ローマ帝国の支配からの解放への期待が高まり、愛国心を燃やす季節でした。そのような時期に、「エルサレム入城」「宮清め」という出来事で、主イエスは行動を通して、ご自分が救い主・王であるというメッセージを発していきます。▼神殿当局者たちは、主イエスの「宮清め」を深刻に受け止めました。主イエスの行動は、神殿を管理する彼らの権限を侵害するものでした。また彼らは、主イエスが民衆を扇動して、ローマ帝国からの弾圧を引き起こすことを懸念しました。 ▽神殿を支配していた最高議会では、3つの派閥「祭司長・パリサイ人・長老」が対立していましたが、一連の主イエスとの論争では、そろって主イエスに対抗し、その権威を問いただしました。そのような文脈で、主イエスは今日の譬えを、神殿当局者である人々に向かって話されます。

■【1.ぶどう園と農夫のたとえ】

33もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

【ぶどう園】ぶどう園はイスラエルを、主人は神様を指しています。▼主人は、①ぶどう園を動物から守るための「かき」を巡らし、②収穫したぶどうを絞るための「酒ぶねの穴」を作り、③ぶどう園を泥棒や家事から守るための「やぐら」を建てました。良い実を得るために、主人が多くの労苦を払い、面倒を見たことは、神の民に対する神様の配慮と保護を表しています。

1世紀のユダヤには、農村に広い土地を持ち、小作人に貸して自分は遠くに住む不在地主が多くいたそうです。小作人は、取れた作物の半分を地主に納めなければなりませんでした。

34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。

【収穫】「収穫の季節」という言葉は、「実りの時」という意味です。ぶどうは収穫できるまでに何年もかかるので、主人は収穫を期待して準備して、待ち望んでいました。▼マタイ福音書では、「実り」という言葉は、「良い実を結ぶ」というように、私たちの信仰から出た善い行い・愛の行いを指します。 ▽神様はご自分の民が、実を結ばないものではなく、「愛」による良い行いの実を結ぶようになることを期待しておられます。▼私たちの人生は、自分自身のためだけに生きるものではありません。神の恵みを頂いて生きているのですから、神に対して「良い実」を結び、その実をお返しする責任があります。

【暴力】しかし、農夫たちは主人の恩に対して、残酷な暴力で報います。

35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。

これは、イスラエルの預言者たちが繰り返し迫害されてきたことを示します。モーセも荒野で殺されかけ、エリヤの時代にも多くの預言者が殺されました。エレミヤも迫害を受け、伝説ではイザヤも殉教したと伝えられます。

農夫がしもべを殺したら、現代の私たちならすぐに警察に通報するでしょう。当時の地主たちは、兵隊を遣わして農夫たちを捕らえるでしょう。▽しかし、意外なことに、この主人は、彼らの侮辱と残酷な暴力を忍耐します。

36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。

イスラエルの文化では、主人の代理として遣わされた使者を辱めることは、主人本人を辱めることとみなされます。主人は当然、農夫たちの行為に答えなければなりません。▽祭司長やパリサイ人が言ったように「悪い農夫たちを容赦なく滅ぼして、ぶどう園を別の農夫に貸す」のが、常識的な対応です。

主イエスのたとえには、常識と異なる驚くような箇所が、しばしば出てきます。そこに神の国の特徴が込められていると言われます。それが37節です。

37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。

【恥じ入るだろう】マルコ福音書では「愛する息子」とあります(12:6)。▼主人が代理として遣わしたしもべたちを打ち殺す、恩知らずで暴虐な農夫たちに、その悪を忍んで、彼らが立ち返る機会・赦す機会を与えるために、 主人は危険と犠牲を顧みることなく、最愛の息子を遣わす決断をします。ここに、忍耐強い赦しの愛が表されています。

冒頭で述べたフセイン1世が、クーデターを計画する軍幹部たちが集まる兵舎に、単身乗り込むことを決意した時のように、 ▽この主人も、沈黙して考え、彼らの暴力と侮辱を悲しみ、その不正に失望しながら、しかし、彼らが立ち返って関係を回復することに一縷の望みをかけて、大きな犠牲を覚悟して、愛する息子を遣わすことを決意します。

主人の独白は、たとえ話のクライマックスです。文字通りに訳すと「私の息子なら、彼らもはばかるところがあるだろう」(岩波訳)、ある学者は「おそらく彼らもわが子の前では恥入るであろう」と訳しています[3]。 ▼ここに、農夫たちの愚かな罪深さと、それをも受け止める主人の温かい愛が表れています。十字架の犠牲を払って愛する御子を派遣された、父なる神の忍耐強い愛と「受肉」が描かれています。

38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。

跡取り息子を殺す――ここに農夫たちの背きは極みに達します。主人の忍耐に対する、徹底的な反逆です。▼農夫たちは、息子を殺せば、財産が手に入ると考えますが、主人 本人が帰って来ることを考えていません。非常に浅はかな判断でした。

【適用】 私たちは農夫たちのように、陰謀で人を殺すことはないと思います。しかし時に、欲にかられて、後先省みずに、人を押しのけ、傷つけ、自分の利益を求めてしまった経験があるかもしれません。▽神がくださった分け前に満足するのを忘れ、神に感謝して神の分をお返しすることを惜しんで、「もっともっと」と貪欲に利益を求めたことはなかったでしょうか? そのような私たち一人一人が神に立ち返る機会を与えるために、神は預言者たちを遣わし、御子・主イエスを遣わしてくださいました。神を忘れて自分を追い求めた私たちが、神に立ち返って、罪を赦され、神と共に歩むようになることが、神が願っておられることです。

【主イエスは「神の子・相続者」】 ここで主人の息子は「跡取り」「相続人」と呼ばれます。▼1世紀前後のユダヤでは、「遺産」という言葉は、「永遠の命」という意味で用いられたそうです。主イエスは、神の国の王座に着き、神からの支配権を委ねられる、王国の支配者・「相続者」です。

主イエスは、受難を目前にしたこの時、たとえ話の中ですが、ご自分の救い主(キリスト)としてのアイデンティティを明瞭な言葉で述べています。「神の子」「相続人」という表現は、救い主であることと結びついています。▼主イエスがまもなく、たとえ話の息子のように殺され、復活された時、 主イエスの教えを思い出した弟子たちは、主イエスがまことの「神の子」であり、神の国の「相続人」であること、すなわち、旧約聖書が預言した救い主(キリスト)であったことを、深く理解しました。

聖書全体を見ると、主イエスが「神の子」「相続人」であるだけでなく、私たちをも「神の子」「共同相続人」にしてくださると約束されています。▽私たちが主イエスを信じて従う時に、キリストに似た「神の子ども」にしてくださり、キリストと共に神の国を受け継ぐ「共同相続人」にしてくださいます。▼小作人として、わずかな収入で満足すべき私たちであるばかりか、貪欲に「神」の地位までも求めるような傲慢な者であった私たちが、キリストと共に神の国の遺産を受け継ぎ、共に支配する者とされるという、恵みの約束に心を留めて、神様のご愛に信頼して参りましょう。

40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。 41彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。

主イエスの時代から40年ほど後に、ローマに対して反乱を起こしたユダヤは徹底的に鎮圧され、紀元70年に神殿は破壊されます。農夫たちに下される「情け容赦のない滅び」は、こうして彼らに実現してしまいます。

42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。

主イエスが話されたアラム語では「息子」benと「石」ebenの言葉遊びがあるそうです。神の子benは、神の神殿を築き上げる尊い石ebenである、と。

この引用は詩篇118篇です。この2日前の「エルサレム入城」の時、人々は詩篇118篇を歌い、118篇にある通り、棕櫚の枝をもって主イエスをキリストとして歓迎しました。その118篇が、救い主がイスラエルの指導者に見捨てられることを暗示していることは、強いメッセージとなりました。

【驚き・不思議】これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」――神の御業は、私たち人間が頭で理解できることではありません。私たちが神の御業に出会う時、それは「驚き」を生みます。「不思議」や「驚き」に触れる時、私たちは心を柔らかくして、神に目を開いて頂かなければなりません。私たちは、神の御業に目が開かれているでしょうか?一つ一つの出来事に、神の導きの御手を認めることができるでしょうか?頭で考え出すのではなく、神に祈る時、神が私たちの心の目を開き、神の業を見る霊の目を開いて下さいます。神の御業が見えない時、絶えず主に祈り求めて参りましょう。

43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。[4]

繰り返しになりますが、「(神の国の)実を結ぶ民」の「実」という言葉は、34,41節の「収穫」と同じ言葉です。このたとえで、「実を結ぶ」ことが繰り返し期待されていることを心に留めたいと思います。

■【2.適用】

新約聖書に出て来る「寛容」という言葉は、ギリシャ語では「怒るのに遅い」「怒りを先延ばしにする」ことを意味しています。(「怒るのに遅い」のは、第一に神ご自身の性質です。)「寛容」に関して、パウロの教えを心に留めたいと思います。

12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:12-13)

神は、私たちの罪を忍耐し、私たちを受け入れ、罪を赦して下さいました。だから、私たちも「寛容」を身に着けるべきだ、と言っています。

【黙想】 ある黙想ガイドに、次のような黙想文が載っていました。

12歳のとき、私はリトルリーグの準備をしていました。初試合が始まる前、父は、「コーチ、子どもたちにアイスクリームを食べさせてあげてください」とアイスクリーム剣をコーチに差し出しました。「どうもありがとうございます。初勝利をあげたら、食べさせましょう」とコーチがにっこり笑って答えると、父は頭を横に振りながら言いました。「最初の試合に負けたら食べさせてあげてください。」コーチは、けげんそうに父を見つめました。「コーチ、私は子どもたちが勝つよりも、努力したことを認めてあげたいのです。そして、何よりも、子どもたちが神の似姿に造られた存在であることを喜びたいのです。それは、野球の勝敗とは何の関係もないことです。息子が一生勝てなかったとしても、私は息子を変わりなく愛して受け入れるつもりでいます。」その日、私は父が無条件に私を受け入れてくれることを悟りました。[5]

このお父さんは、息子が勝っても負けても息子を愛することを示しました。それ以上に、神様は、背きのただ中にあるイスラエルに、犠牲をいとわずに愛する独り子を遣わしてくださいました。その愛は、私たちが順調な時も、逆境の時も、変わらないことを心に刻みたいと思います。罪・過ちを犯す時には、私たちが神に立ち返るためにこそ主イエスが来られて、神の愛は変わることがないことを、心に留めたいと思います。

マタイ21:37「37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。

コロサイ3:12-13「12…あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。


[1] ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」p644-645

[2] ケネス・ベイリー、前掲書、P631-632

[3] ケネス・ベイリー、前掲書、p646

[4] 「民」という言葉が用いられていることに、神の民に関する根本的な変化が想定されている。

[5] リビングライフ2011年8月27日