マルコ1:14-20「主イエスが宣べ伝えたこと」

2024年1月21日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ1:14-20,ヨナ3:1-5,10
説教 「主イエスが宣べ伝えたこと」
メッセージ 堀部 里子 牧師

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 写真:ガリラヤ湖 ©Zachi Evenor, from wikimedia commons, CC-BY-SA 4.0

【今週の聖書箇所】

15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
17イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

マルコ1:15,17

4ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。 5そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

ヨナ書3:4-5

おはようございます。今日はドイツからS姉が礼拝に出席していますが、メッセージの後に転入会式をいたします。久しぶりにお会いできて嬉しいです。S姉と私の共通点は同じ1月生まれということです(笑)。

誕生日と言えば、必ず誕生日カードを送ってくださる高校時代の英語の先生がいます。30年以上も毎年欠かさずです。Mr.Burks先生は、今は引退されて母国アメリカに戻られていますが、私だけでなく御自分が関わった生徒たち全員に誕生カードを送る先生です。Mr.Burks先生が牧師の息子だと知ってからは、先生のあらゆる言動に納得がいきました。いつからか先生のカードの最後にこのような言葉が記されるようになりました。「My life goal is to serve God’s purpose during my generation.」(私の人生のゴールは、私が生きている間に神の目的に仕えることです)

先生にとっての「神の目的」とは何だろうと先生の生き方を思い起こしたら、それはキリストの言葉に従い、キリストの弟子として生きることではないかと思わされました。私たちは何をゴールにして今年の人生のレースを走るでしょうか。

【主イエスの宣教開始宣言】

ゴールがあるなら、スタートがあります。イエス様は宣教活動をスタートされました。しかしスタートした時とは、イエス様の歩まれる道を一生懸命に整えていたヨハネが投獄された時でした。二人が一緒に宣教していたらどんなにか素晴らしい働きが成されたでしょうか。

「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた」(14)

ヨハネは一体何の罪で捕らえられたのでしょうか。ヨハネはただ人々に、洗礼を授けていただけでした。そして彼が伝えていたメッセージは、「「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)でした。罪を犯すどころか、ルカの福音書にはヨハネが授けていた洗礼が「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(ルカ3:3)と記されています。「罪の赦しと悔い改め」はワンセットです。罪が大きいほど、神の赦しも大きいのですが、そのためには「本気の悔い改め」が必要です。罪を反省したり悔いる人は多くいますが、行動を改めることは容易ではありません。しかし、行動が伴って初めて「悔い改め」がなされたことになります。

ヨハネは物をはっきり言う人で、罪に対して容赦せず、当時の領主であったヘロデ王の罪もはっきりと指摘しました。ヨハネは正しいことを言ったのに、牢に入れられてしまいました。その時、イエス様はヨハネから洗礼を受けた後でした。ヨハネが投獄されたことを聞くと、ガリラヤに行かれました。ガリラヤはイエス様の故郷であるナザレがある地方です。イエス様はヨハネの働きを受け継ぐかのように、ガリラヤのカペナウムに退かれて、公に宣教活動を開始されました。

【主イエスの第一声】

イエス様の第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(15)でした。ヨハネとほぼ同じ内容です。ヨハネの言葉との違いは「時が満ち」「福音を信じなさい」が加わっただけです。「時が満ちた」とは、単に「時間になりました」でなく、「機が熟していよいよ最高の状態に至りました」ということです。イエス様は、第一声を発するまでは「田舎の大工の息子」という立場でした。でもその日を境に、「神の子・救い主」として、公にデビューしたことになります。イエス様が地上にお生まれになって30年が経過していました。イエス様は神の子でありながら、人間と同じ時間軸と制限の中で人生を歩まれ、神のGOサインが出た時、つまり時が満ちる時を待っておられたかのようです。イエス様がこの世に来られた時点で、神の国の働きが始まっていましたが、いよいよ宣教され、十字架の道を歩み、復活し、救いを完成する時がきたのです。

神の国とは、天国のことですが、イエス様がおられるところ、神様の支配が及んでいるところが神の国です。ですからイエス様が来られたことで、この世における神の国の占める存在が拡がりを見せて最高潮に達っそうとしています。ですから、神の国に入るために、悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさいとイエス様は語られたのです。

【悔い改めの実を結ぶ】

何を悔い改めるのでしょうか。この問いを自分自身に向けた時、私は去年忙しくなって自分のデボーションが疎かになっていたことを悔い改めました。私は御言葉を読んで、黙想し書き留めることを常としていましたが、JCE7前後は書くことをせず、ただ読んでいただけでした。小さなことかもしれませんが、時間が経つと大きなことに思えてきました。

私は別に悔い改める事柄はないと思う方も世の中には多くいらっしゃるかもしれません。神を神とも思わないことや、自己中心的に生きることも罪です。クリスチャン新聞福音版12月号に俳優・井上芳雄さんの証しが載っていました。彼の家系はクリスチャンの家系で、お父様もおじいさまも曾おじい様もミッションスクールである西南学院の教授をされていて、クリスチャンホームで育ったそうです。2016年に37歳で結婚を機に洗礼を受けられたそうです。きっかけは結婚だったかもしれませんが、舞台のお仕事をされている時に韓国人のクリスチャンとの出会いがあり、「なぜ神様のために俳優をしないのか」と問われてはっとしたそうです。井上芳雄さんは、あるインタビューで以下のように答えています。

「若い頃は自分自身の夢の為に働いていたが、ある時自分の為だけに何かをするには限界があると感じた。今している働きを神に向けることで、その働きは新しい出会いを生みさらに良い方向に広がっていく、それこそが真の良い働きであることに気付いた。」(クリスチャンプレス日刊キリスト新聞)

井上芳雄さんのこの気付きこそ、神様が私たちに求める「悔い改め・方向転換」ではないでしょうか。悔い改めるとは、生き方・思い・考え方・自分の言動を今までとは違う方向・神の方向に転換をすることです。本気の悔い改めは、人を謙遜にさせます。口で「悪かった」と言っても心ではそう思っていないとするなら、相手が受け入れてくれなかったり無視されたりすると、怒りを露わにする人もいるかもしれません。しかし、本気で悔い改める人は周りが何と言おうと、どんな状況であっても、自分自身が悪かったと完全に認め、違う言動をしていくようになるのです。神の国に入るためには、ただ悔い改めと信仰が必要なんだということが分かります。

【弟子を召し出す主イエス】

イエス様は福音を宣べ伝えた後に、弟子たちを召し出しました。

「さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。」(16-20)

イエス様はお一人で神の国を建てようとされたのでなく、誰かと一緒に建て上げようと弟子となる人たちを呼び寄せました。最初の弟子たちは、祭司でも律法学者でもなく、無学な漁師たちでした。彼らの仕事である「漁」という日常生活の中にイエス様は入って行かれて直接声をかけられました。不思議と彼らはすぐにイエス様に従ってついて行きました。聖書を見ると、「すぐに網を捨てて、…父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った」(20)とあります。

S姉は日本の音楽大学を卒業後、生涯を主に捧げて歩みたいと神様に献身をしました。しかし、神学校に行くことにお父様が首を縦に振りませんでした。S姉は進み行く道を祈り求め、海外で学ぶことならとお父様の許可を得ました。ドイツの大学は学費が無料であること、知り合いの先生がドイツにおられたことなどもあり、ドイツで学ぶ道が開かれました。ドイツでパイプオルガン、教会音楽全般を学び、外国人で取得が難しい最高位のA級カントールを取得し、教会音楽家としてのイエス様の弟子の道を現在は歩んでおられます。

イエス様の弟子になることは、自分の職業も親も捨てないといけないのか、厳しいなと思うかもしれません。しかし、大切だと思えることに出会った時、一大決心をして人生をかけて、新しい一歩を誰でも踏み出すのではないでしょうか。弟子となった人たちは、イエス様の噂を聞いていたかもしれません。イエス様の声を聞いて応答し、今あるところから一旦離れて、主と同じように歩むことを決断しました。イエス様は私たちの日常にも来てくださり、弟子となるように招いてくださっています。

【ヨナの応答】

神様の命令にいやいやながらでも従った人がいます。不本意であっても悔い改めて、神の言葉に従って宣教をした時、町全体に変化が起こされるという経験をしたのがヨナです。彼は神様の言葉に一度は背いて逃げました。すると大きな魚のお腹の中で三日三晩過ごすことになりました。お腹の中で神様に呼び求めます。するとヨナは、陸地に吐き出されて、神様から再度、同じ命令を聞きます。一度は死んだも同然で、生かされたヨナは今度こそ神の言葉に従おうと思ったでしょう。「時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ』」(3:1-2)

一度失敗をした人にもう一度同じチャンスが与えられることは、その人は何らかの形で期待されていると言えます。そしてそのチャンスを生かすならその人にとって大きな成長になるでしょう。

「そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。」(3:3a)

「ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。 3:4ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、…」(3:3b-4a)。ヨナは先ず一日分の道のりを歩いて叫びました。ヨナは魚のお腹の中では神に向かって叫びましたが、今度はニネベの町の人々に向かって叫びました。「四十日を経たらニネベは滅びる」(4)。でもヨナは心の中で、葛藤もあったと思います。ニネべの人は当時、とても残忍な民で一度戦争をすると、敵を虐殺していたので、周辺諸国から怖がられていました。もし、彼らが悔い改めて滅びることをまぬかれたら、イスラエルの国が危ないことになります。イスラエルの敵を助けることにヨナは葛藤があったのです。しかし、ニネベの人たちは意外な反応を示しました。ヨナの宣教は素晴らしい効果を発揮していったのです。ヨナのその時の状態は神様にとっては関係なく、「行け」といったら「はい」と答え、行くかどうかが大切なのです。そして行った先でヨナを用いるのは主御自身なのです。

【神が思い直される時】

「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」(5)常識的に考えると、魚臭くてみすぼらしい身なりのヘブル人が一日中、裁きを叫んで悔い改めが起こるとは想像しがたいことです。ニネベの人々は神の裁きと災いを伝える「ヨナ」にではなく、災いを下すことを決められた「神」に応答しました。「このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。」(6)

ニネベの王様には密かな期待がありました。「あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」(9)という期待でした。

神は実際に思い直されました。ニネベの人々の本気の悔い改めが神の心を動かしたのです。「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」(10)そのことは、神様の心は最初から「もし本気で悔い改めるなら赦す」という心でした。神は「本気の悔い改めがあるところに裁きはしない」と決めておられるお方なのです。なぜなら、神様は選民イスラエルだけではなく、異邦人も愛しておられるからです。ヨナの人間的な弱さや不従順さにも関わらず、神様の愛の計画が先行して行きました。神の恵みはすべての人に提供されるものです。

悔い改めが自動的に救いをもたらすのではありません。救いをもたらすと決めるのも神です。私たちがなすべき分と神様がしてくださる分それぞれあります。私たちがするべき分は「悔い改めて神の言葉に従う」ということです。人生の転機に悔い改めることもあるでしょう。苦しみの中で悔い改めに導かれることもあるでしょう。大切なのは毎日、御心を求めることです。「神様、あなたの御心に沿って歩ませてください。神様、あなたの御心に沿って歩みたいと願いましたがそうでないところがあったなら教えてください。無意識の内に罪を犯したならば教えてください。誰かを知らない内に傷つけていたならば赦してください。キリストの香りを醸し出さず、相手の心を害してしまっているならそれも悔い改めます。」というように祈るのです。正直に神の前に出ることは、神が喜ばれる心と生活です。ただ一度「ごめんなさい」を言ったから終わりではなく悔い改めたことが実を結ぶまで、神様に見えるまで続けなければならない大切な営みです。

【まとめ】

 イエス様が宣べ伝えたことは、悔い改めと主の弟子への招きでした。ヨナは苦しみを経て、神に立ち返り再度チャンスを与えられました。神様は私たちが神様の方に向き直るなら、やり直しのチャンスを与えてくださる方です。ニネべの人々には「大切なメッセージに耳を傾ける心と行う意思」がありました。過去にどのような悪を行ったかよりも、本気で神に対して「ごめんなさい、赦してください」と言えるかどうかなのです。方向転換をする真剣な態度は神様の目に麗しいのです。真実に悔い改める者にはいつでも裁きを祝福に変えることが神はできます。イエス様は罪は全く犯しませんでしたが、人間の代わりに十字架に架かり、私たちがすべき「ごめんなさい」を担ってくださいました。イエス・キリストが赦しの道筋を整えてくださったのです。この道を選び取る人は「神に立ち返る人生」の祝福を受けます。「6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ2:6-11)